一週間くらい前、オードリーのラジオを聴いていたら、若林さんが、子育てのなかでの自身の発見について、若林さんらしい視点と表現で語っていたことが印象に残った。
幼い娘が、順番や物を他人にとられることが多いと知った若林さん。娘に、なんて声をかけたらいいか悩んだそうで、「取り返しなさいというのも違うし、諦めなさいというのも違うし……自分に出会うなぁ、あれ」と、ラジオのトークで零していた。
子どもと向き合って、本人に伝えたいことを真剣に考えたときに、「自分に出会う」という表現が素敵だな、と思った。我が子が大きくなって、自分に似ている面があるから自分に出会う、というのではなく、なにを伝えたいか、残したいか、という葛藤や苦悩によって、自分に出会う、という視点がよかった。
それから、「他人のものをとる」ということと関連した話として、オードリーの若手の頃の話題になり、当時、後輩らの(お笑い的に)おいしい部分を奪ってまで自分が前に出ようとしていた先輩は、結局その後そういう人生になっていったし、大変なときに誰も助けてくれなかった、という話を春日さんとしていた。
自分に出会う、ということで言えば、(直接は関係ないが)タイミング的にちょうど同じ頃、精神科医の名越さんがSNSで呟いていた言葉も、シンプルながら響くものだった。
「最後に残る言葉は、自分に戻れ、だ。苦しんでいる時、何者かになろうとしている。」
何者かになろうとしているとき、確かに苦しい。なんなら、いつも自分はこの手の落とし穴にはまりこんでいる。なぜ何者かになろうとするかと言ったら、「自分」のままだと不安だからだ。慕われていたり、人気のあるような、「何者か」になろうとして、しかし、結局は居心地が悪くなる。自分ではないから当然だ。薄っぺらい真似事だと、自分のことが、いっそう嫌いになる。それなら最初から、より「自分」であったほうがいい。
最後に残る言葉は「自分に戻れ」だ、というのは、つくづく真理だと思う。
ちょっと話が逸れたが、最近心に残った、オードリーの若林さんと、精神科医の名越さんの「自分」にまつわる話を二つ、簡単に纏めてみた。