東京の冬の夜の「火の用心」
遠くから聴こえてくる、「火の用心、マッチ一本、火事の元(カンカン)」の音。
年末という感覚があまりなくなってきたものの、それでも、冬だな、年末だな、と思える風物詩の一つに、外から聴こえてくる、この「火の用心」という掛け声と、カンカンと鳴り響く木の音がある。このカンカンと鳴らすものの名前は、拍子木と言う。
声かけを行っているのは、消防団や町の自治会の人たちで、空気の乾燥した冬の12月や1月に火事が多いこともあり、年末に夜回りをするようだ。
さっきも、遠くの方から、火の用心、と言ったあとに、カンカン、と乾いた木製の音が聴こえてきた。声は、最初、幼い子供の甲高い声で、その後に、大人の男の人の声も聴こえてきた。子供も一緒に夜回りをしているのだろう。
火の用心の掛け声と言えば、「火の用心、マッチ一本火事のもと」という標語が有名だが、最近は、「火の用心」と言ったあとに、すぐ、カンカン、と拍子木が叩かれる。
なぜだろうと思っていたら、「マッチ一本火事のもと」という部分まで掛け声をしていた際に、うるさいという苦情が届き、火の用心と拍子木だけになったようだ。正直、それほど変わらない気もするし、世知辛い世の中だなと思う。
東京に住んでいると、あまり地域の人たちとの共同体意識がないこともあり、地元を離れて一人暮らしをし、帰省する予定もなく年末を過ごしている自分にとっては、この街の誰かが、自分のことも心配してくれているという気分になるからか、その声と木の板の音にほっとする。
ただ、そうは言っても、僕自身は人付き合いが得意なほうではないので、ご近所さんや町の人たちと交流をしたいというわけでもない。
それでも、一人で暮らしている冬の夜に、町のほうから聴こえてくる「火の用心」の掛け声とカンカンと響く音は、ちょうどいい距離感で人間の温もりを感じさせてくれる。
起源
ところで、この火の用心の夜回りは一体いつ頃からの風習なのだろう。調べてみると、こんな文章があった。
「火の用心、マッチ一本火事のもと」という掛け声と、夜に響く澄んだ拍子木の音。1年の終わりになると、東京のあちこちで見かける冬の風物詩だ。火災防止のための見回りが始まったのは、幾度も大火に見舞われた江戸時代。1648年(慶長元年)の町触れで、町役人による見回りが記されている。
1718年(享保3年)、8代将軍徳川吉宗の治世に、町火消が発足。武士の武家火消と、町人の町火消による消火活動が始まった。現在は、消防本部(消防署)と消防団による活動が行われているが、年末には地域の消防団や町会が「火の用心」を呼びかける運動を行なっている。
思っていた以上に歴史のある風習のようだ。ただ、どの段階から、火の用心という呼びかけや、拍子木を2回叩くという形が始まったのかは分からない。
また、「2回叩く」という行為に、どんな意味合いが込められているのかも調べてみたが、いくつかの説が紹介されていたものの、これもはっきりとしたことは不明だった。
夜回りのときに拍子木を「カン カン」と2回鳴らす理由には所説があり、一説には、神社で二礼二拍手一礼をすることにならっているといい、また一説には、中国の陰陽思想から来たもので、2回鳴らすことで陰と陽を表しているともいわれている。さらに、神に食事を供えるときに2回拍手をしたことからだという説もある。
いずれの説にしても、起源は古そうだ。もともと、「火の用心」というフレーズを最初に使ったのも、徳川家康の家来の本多作左衛門重次が、戦場から妻に宛てた手紙だと言う。
徳川家康と豊臣秀吉が愛知県の小牧山で戦っていた時に、徳川家康の家来だった武将の本多作左衛門重次が妻にあてた手紙に次のように書かれていました。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
このお仙というのは、まだ幼い長男のことらしく、家は火の元に気をつけ、息子や、戦に欠かせない馬を大切にするように、という内容で、家のことをしっかり頼む、ということを伝えた手紙だったのだろう。
簡潔で、かつ想いが伝わってくることから、よく手紙の名文としても紹介されるようだ。
等々、僕がこんな文章を書いているあいだに、掛け声と拍子木はすっかり聴こえなくなり、今は、お風呂場の水の雫の落ちていく音だけが部屋に響いている。