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二十億光年の孤独とくしゃみ

詩人の谷川俊太郎さんの代表作に、『二十億光年の孤独』という詩がある。僕は谷川俊太郎さんの作品をそれほど熱心に読んできたほうではなく、正直、あまり多くは知らない。詩集は一冊持っているだけだ。

この詩も、だいぶ有名な詩なのに、教科書に載っている詩が纏められている詩集などでさらっと読んだことがあるくらいで、よく覚えていないし、しっかりと向き合ったことはなかった。ただ、谷川俊太郎さんが翻訳したり原作を書いている絵本は好きなので、谷川俊太郎さんの言葉というよりは、谷川さんの詩に関して、自分のなかで感覚的に少し合わない面というのがあるのかもしれない。それでも、絵本などを読んでいると、谷川さんが好きなものは好きなように思うし、そう考えると、根っこの感性が合わない、ということではなく、単純に、表現の仕方の好みの問題なのかもしれない。そんな風に思ったこともあり、最近、改めて、代表作である『二十億光年の孤独』を読んでみた。

谷川さんと言えば、若い頃から詩人として活躍し、日本でも一番有名な詩人と言っても過言ではなく、その谷川さんが、21歳のときに出したデビュー作の詩集が、この詩と同名の『二十億光年の孤独』だ。以下、詩の本文となる。

『二十億光年の孤独』

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

谷川俊太郎『谷川俊太郎詩集』

詩の解釈や感想というのは一様でもないし、特に、理解の難しい単語が使われていると余計に分かれる。

ただ、個人的には、この『二十億光年の孤独』を読んでいると、宇宙のなかにある、「自分」と「他者」の孤独と結びつきが描かれているように思う。地球の上にいる地球人と、火星の上にいる火星人。互いの共通点が、どれだけあるかというのはわからない。ただ、詩の途中に出てくる、ネリリやキルルやハララというのは火星語で、地球語で言う、眠り、起き、働く、ということと音の響き的に対応しているのだろう。ネリリは眠り、キルルは起き、ハララは働く。もしかしたら火星人も、地球人と同じように、眠り、起き、働いているかもしれない。しかし、絶対にそうだとも言い切れない。何をしているか、「僕」は知らない。ただ、確かに言えることは、地球人がときどき火星に仲間を欲しがっているように、彼らもまた、ときどき地球に仲間を欲しがったりする、ということだ。

これは、「私」と「あなた」でも同じことが言えるのかもしれない。相手がどう思っているのか、何をしているのか、どれだけの共通点があるのか、ということは、同じ地球人であれ、親しい間柄であれ、厳密に言えば、はっきりとしたことはわからない。似たようなことをしているんだろう、と思えても、実際は、何を考えているのかわからない。ただ、違う人間同士も、根っこを探ると、僕たちは同じように、孤独であり、同時に、仲間を欲しがっている、そのことだけは確かなんだと、そんな意味合いもあるような気がする。

たとえば、それは「言葉」にも象徴される。言葉にして表現するということは、誰かに読んでもらうことを求めている。誰かに読んでもらうということを最初から一切期待もしていないのであれば、特に言葉にして表現する必要もない。しかし、言葉によって分かり合うことは、厳密に言えば難しい。言葉にできる、ということが、孤独を生み、また引き合う力にもなっている。そのはざまにいる、ということそのものが、孤独の根幹なのかもしれない。

いずれにせよ、我々は孤独であり、不安であり、同時に引き合う力のなかにいる。そのことに関し、万有引力や、宇宙の膨張など、この世界の科学的な法則も使って詩人は解釈してみる。これは、この宇宙全体を覆う原理なのではないか、と。

詩のタイトルである『二十億光年の孤独』の「20億光年」という数字は、この詩が書かれた1950年頃に考えられていた宇宙の直径に由来するようだ。宇宙の広さというものに、若かりし頃の谷川俊太郎さんが相対し、そのなかを流れている孤独や引き合う力の法則性について眺めている様子、というのが、この詩なのだろう。詩によって個人の「孤独」を表現するとなったら、もっと切実で、苦しいものになる。一方、この詩人の青年は、まだ、そういった耐え難い痛みを伴うような孤独を体験する前であり、もっと無垢に、あるいは客観的に、この世界と人間の孤独を描写している。

詩の最後に、「二十億光年の孤独に、僕は思わずくしゃみをした」と唐突に作者がくしゃみをする。一体なぜ、ここにくしゃみが登場するのだろうか。宇宙という規模から、くしゃみによって、突然自分の世界に引き戻される。特に身体現象というのは、はっきりと「現実」であり、夢から覚め、ふと我に帰ってぽつんと一人存在している自分、というのを置きたかったのではないかと思う。谷川俊太郎さん自身は、この「くしゃみ」の意味について、それほど多くは語っていないが、「大きな宇宙と小さなくしゃみ、という対比が面白かったから」というようなことを言っている。また、別の場所では、「ぼくは学校がきらいだった。人間社会の一員であるより先に、宇宙の生物の一つという考えになっちゃった。そのスケールの大きさに照れくささを感じて、『くしゃみ』(というおどけた表現)になった」と答えている(谷川俊太郎さんに聞く 詩の楽しみ方)。確かに、くしゃみという表現には、我に帰ったときの照れくささのようなものも垣間見える。ただ、これは作者としての心情であるものの、作品のなかで働くくしゃみの効果としては、「我に帰った自分という一人の孤独な存在」を浮き立たせているようにも思う。

ちなみに、くしゃみをすることで、誰かが僕の「噂」をしている、他者(火星人)の存在を匂わせている、だから孤独ではない、といった解釈をしている人もいた。それはそれで面白い視点だなと思う。