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裏表がない人

裏表がない人、という言い方がある。裏表のない人がいい、という人もいれば、裏表がない人なんていない、という人もいる。そもそも、「裏表がない人」というのは、どういった人を指すのだろう。

いつでも、どんなときでも、誰に対しても、態度が同じ、ということだろうか。基本的には裏表がないことは、褒め言葉として使われる。ただ、性格がよくて裏表がなさそう、という場合もあれば、普段から一見すると性格が悪いように思えても、誰に対してもああだから、素直に自分の感想や意見を言っているだけで、裏表がないのがいい、といった捉え方の場合もある。

でも、そもそも、どこまでを「裏」と定義しているのだろう。誰でも、余裕がなくなれば苛立ったり弱音が溢れたりする。誰にも言えない性癖を持っているかもしれない。そういったことは、「裏」なのだろうか。

テレビの世界を見ていると、過剰に装飾するにせよ、偽りのキャラにせよ、割と普段と変わらない自然体の姿にせよ、「表」を見せている。見られる、お金にする、ということを踏まえれば、当然「表」になる。そして、その「表」の姿を見ながら、人々はイメージを抱く。期待や幻想が、どんどんと膨れ上がったあと、あるとき、「イメージが壊れた」と言ったりする。

テレビの芸能人に近いようなことが、日常のSNSでも言える。誰もが「表」を見せている。しかも、装飾した「表」であることも多い。その「表」に惹かれ、また溢れかえる「表」と比較して、自分はなんて駄目なんだ、なにもないんだ、と卑下する。本来、それは当然だと思う。自分は、向こうの「表」しか知らず、しかも、その「表」も、装飾した「表」である一方で、自分自身に関しては、「表」も「裏」も知っているし、人によっては、自分の「裏」の方ばかりを見ている。

相手の装飾した「表」と、自分のクローズアップされた「裏」を比較したら、惨めになるに決まっている。

裏表というとき、今は、「表」の光が強すぎるように思う。眩い「表」で溢れすぎている。誰にも、それぞれの形で暗さや弱さは持っている。これだけ「表」が強すぎる世の中だと、偽りの美しい世界に麻痺し、本来、そんなことは「裏表がある」に入らない些細なことまで、「裏表がある」と捉え、もっと「裏表のない人」がいい、という方向に向かっていくように思う。

そんな風にして、誰もが気張った「表」を見せつけようとすればするほど、この世界の光が強くなればなるほど、「裏」というよりも、人間の「影」の部分も膨れ上がっていく。ほどよく、裏表のある人、光と影のある社会がいいのではないか、と思う。