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寂しいと消えたい

特に正月らしい正月でもなく、一人で静かに年越しを迎えている。

もともと一人は落ち着くし、世間の動きと心の中で距離を置いていると、外の賑やかさはそれほど気にはならない。とは言え、年末からお正月にかけての眩しさは、心に少しだけ寂しさを灯らせる。このときの寂しさは、人々が、次の年に渡っていく、みんなが先に行ってしまって置いていかれる、という感覚に近い。

年が明け、世界の人々が「あけましておめでとう」と言っているので、自分もなんとなく、「あけましておめでとう」と言ってみる。でも、心のどこかで、変わっていない、進んでいない、という自分自身を置き去りにしていくような、置き去りにされるような抵抗感や不安感が芽生える。

そんな風に、朝から部屋で一人、「寂しい」という感情のことを考えていたら(僕はよく自分の感情と向き合うために、あるいは目を逸らすために、“観察”をする)、誰かに「必要とされたい」という感情が、思っているよりも「寂しい」のすぐ近くにいることに気付かされる。

自己肯定感の低さゆえに、ふと、「自分はこの世界に必要のない存在ではないか」という不安感に苛まれる。普段から思っていることではあるものの、そのことが、いっそう強く襲いかかってくることがある。

それは、好きな人や親、友人の言動であったり、夜の空っぽな時間に発作的に起こったりと、色々なタイミングで生じる。自分は要らない、ということの耐え難い不安感。誰かが自分のことを本当に必要としてほしい、自分がいなくなったら辛いと思ってもらえるような存在でありたい、という想いが溢れ出す。

それは言わば、かけがえのない、誰かにとって唯一無二の存在であることが、この世界にとっていなくても変わらない自分の生きていることの証明、あるいは、生きていてもいい、ということの許しに繋がっているのだと思う(実際には、悲しむ人はいるのだ。全くいない、などということはないのに、もっと「確かなもの」が欲しくなる)。

この「必要とされたい」という感情が、さらに進むと、「死にたい」や「消えたい」となってくる。

死にたい、という感情も、色々な形があるが、その一つとして、まずは、「寂しい」があり、「自己肯定感の低さ」があり、「必要とされたい」があり、その先の「死にたい」に繋がっていく、ということがある。

自分が存在していた場所を空白にすることによって、誰かが必要としてくれるだろうか。もう会えない、話もできない、声も聞けない、そういった状態になったら、こんな自分のことでも、会いたい、話がしたい、声が聞きたい、と思ってくれるだろうか。

なぜ、「寂しい」が「死にたい」や「消えたい」になるのかと言えば、そんな風に、根深い「必要とされたい」という心理もあるのではないかと思う(その順番を辿ることなく、そんな感情も全て消したい、というときには、より「消えたい」が強くなる)。

中学生で不登校だった頃、日記に、もし自分が死んだら、お葬式に誰か来てくれるだろうか、どれくらいの人が来てくれるだろうか、といったことを想像して書いたことがある。

この死の想像というのは、自分の「空白」と、空白になったら、決して触れられない面影になったら、誰かが必要としてくれるだろうか、悲しんで会いたいと求めてくれるだろうか、ということを想像することによって、心のバランスを保っている面があったように思う。

あれは、生きていることそのものが嫌だから死にたい、というのとはまた違う、寂しい、必要とされたい、ということが行き詰まった先の表現であり、想像だったのだと思う。

誕生日おめでとうでも、あけましておめでとうでも、SNSのいいねでも、「承認欲求」という言葉で片付けられるが、「自分が存在していい理由の欠落」というのがきっと根底にある。

でも、この穴はどうしたら埋められるのか、よく分からない。恋人に求めると、それは依存に繋がるし、SNSで解消しようとしても、結局は依存になる。

しかも、人間への依存は、「離れていく」ことへの不安といつも隣り合わせになる。もっと、自分が本当に必要かどうかを試したくなる。足りなさや離れられる不安で、愛を試すようになる。もっと欲しくなる。この要求には、相手もいずれ疲れるだろう。

また、この要求が心地いいという人とは、共依存になる。共依存も、最初はお互いに絶対に必要だ、というのでよかったとしても、もともと自立していない二人なので、一つ歯車が狂うと、“子供の位置”を奪い合う争いになるかもしれないし、やがてどちらかが重さに耐えられなくなるかもしれない。

深く寂しいもの同士の恋愛が、ときにもっと寂しい結末を迎えることになるのは、そういった理由や背景があるのだと思う。

寂しい、というのは、なんて難しい感情なのだろう。散歩に行き、鳥の鳴き声を聞く。風に吹かれる枯れ葉を眺めてみる。空は快晴だ。