このサイトでは、アフィリエイト広告を利用しています。また、感想に関しては、一部ネタバレを含んでいる場合があります。

寂しがり屋の一人好き

大学時代にmixiが流行り始めた頃、僕もmixiを始めた。誰の誘いだったかは覚えていない。いずれにせよ、これが人生で初めてブログを書く、という経験だった。あの頃は、自分のなかに日常や考えを公にして書くなどという習慣もなく、一体何を書くんだろうと不思議に思いながら、手探りで続けた。気づけば、SNSを中心に日常を公にすることが普通になっているのだから不思議なものだ。

mixiには、コミュニティという共通の趣味や嗜好を持った人が入る仕組みがあり、その人が、どんなコミュニティに入っているか、ということが、他の人の紹介文とともにプロフィールで確認できることから、その人のアイデンティティやキャラクターを把握する手がかりとなった。この仕組みは、今でもとてもよい形ではないかと思っている。直接、自分はこういうものです、と自己紹介するよりも、遠回しに、間接的に知る、というスタンスが肌に合っていたように思う。

僕が入っていたコミュニティのなかで覚えているのが、「寂しがり屋の一人好き」という名前のコミュニティだ。これは文字通り、寂しがり屋のくせに、一人が好きという、ある意味ではちょっと難しい性格の人々が集まってくる。コミュニティには掲示板もあり、何かメッセージを書き残したり、コミュニティ内の人々と交流ができる仕組みにもなっていた。僕は、特に書き込んだことはなかったが、ただ、その「寂しがり屋の一人好き」というキャッチコピーのような一文が好きで入った。

これは人間の本質をつく「名文」だと今でも思っている。一見すると矛盾に見える、寂しがり屋と一人好き。でも、そういう人は結構多いのではないかと思う。一人でいることが落ち着く。外から見たら孤独に見えても、本人はほとんど気にならない。でも、ときどき無性に寂しくなる。寂しくなるからと言って、誰かとずっと一緒にいたり、みんなで大騒ぎする、といったことも、すぐに疲れてしまうからなるべく避ける。繊細であるがゆえに寂しくなり、繊細であるがゆえに誰かと一緒にいる余力もなく一人を好む。それは別に矛盾しないのではないかと思う。

ただ、人付き合いや恋愛に関しては、色々と難しいだろうなと思う。相手が、寂しがり屋で、甘えたがりで、ずっと一緒にいたい、という人だったら、それはそれで疲れてしまうし、一人になりたくなる。でも、向こうが一人好きで、孤独でも全然平気だ、全く寂しそうな様子がない、というタイプなら、それはそれで寂しくなる。人付き合いにおいて、面倒だという自覚がある場合は、結局どちらかを抑え込むことになる。あるいは、ちょうどいい塩梅に、お互いが寂しがり屋の一人好きでないと合わない。また、どんなときに一人がいいか、この部分は一緒にやろう、といったことを話し合う必要もある。寂しがり屋と一人好きのどちらのほうが、傾向として強いか、というのも、人それぞれのように思う。

寂しがり屋の一人好きは、一人旅が苦手という人もいるようだが、僕自身は、一人旅が好きだ。でも、この「好き」というのも、実際に正確かどうかはちょっと分からない。本当は寂しいから誰かと一緒に旅行したいという気持ちもあるが、人がいると精神的に落ち着かないので、一人がいい、ということもあるような気がする。寂しさは根っこにあるものの、誰かとの空間自体に長くは耐えられないので、心地よさを基準にして結局は一人を選ぶ。これを、「一人が好き」ということにしているのかもしれない。これが僕に限ったことなのか、男女問わずそうなのか、この辺は分からないが、多かれ少なかれ、根っこに寂しさがあり、でも、人と接することにはすぐに疲れる、ということから、「寂しがり屋の一人好き」が生まれるのではないかと思う。

だから、もし同棲や結婚をするとしたら、空気のような、自然体でリラックスできる相手か、距離感がちょうど合う人でないと、なかなかできないんじゃないかなと思う。寂しがり屋の一人好きにとっての恋愛では、(誰にとっての恋愛もそうではあるにせよ、いっそう)「ちょうどいい距離感」を探ることが、なによりも大事な要素になってくるように思う。