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「世の中にはもっと辛い人がいる」

悩みや苦しみの真っ只中にあって、慰めや励ましのつもりなのか、叱咤なのか、「世の中にはもっと辛い人もいる」「もっと不幸な人もいる」といった類の言葉をかける人がいる。

でも、「世の中にはもっと辛い人もいるんだ」といった言葉をかけられ、「確かに、その通りだ。自分の辛さなんて大したことはない、頑張るぞ」と励まされる人は、一体どれくらいいるのだろう。

特に、本当に辛くてどうしようもないとき、その言葉は、「お前の辛さなど、なんでもない。そんなことで悩むな、黙って頑張れ」といった意味合いを持ち、いっそう重くのし掛かってくる。

その結果、この程度で弱音を吐いてはいけないと、口を閉ざし、心を閉ざし、もっと頑張らないとと、余計に追い込まれることになる。

ただ、もしかしたら、この「もっと辛い人もいる」という言葉も、他人から言われるのではなく、自分でふと、「世の中にはもっと辛い人もいる。自分よりも、もっと“ない”人もいる、それと比べたら、自分にはまだこれが“ある”だけいい」といった形で、自分の世界の見え方として、“ない”に視線が固定されていたのが“ある”に向けられることで意識も変わる、ということはあるかもしれない。

それなら、この言葉も、意味を持ってくることもある。でも、これもあくまで、“自分自身”で、何かのきっかけによって、そんな風に見えるようになったからよいのであって、まさに今、辛い、悲しい、その思いを吐き出したい、というときに、その感情を押さえ込み、上から蓋をかぶせるように、他人から、「世の中にはもっと辛い人もいるんだから、その程度のことは気にするな」といった空虚な正論をかけられても、何の励ましにも、解消にも繋がらない。

吐き出したいのに、塞がれれば、いっそう苦しくもなる。

あるいは、テレビの辛いニュースなどを見て、この世界には、こんなに不幸な人がいるんだから、自分程度が泣き言を言ってはいけないと、自分自身の苦しみに蓋をするという場合もあるかもしれない。

しかし、そんなことを言い出したら、この世界で立ち止まっていいのは、世界一辛い“一人”だけになってしまうのではないだろうか。

そもそも、根本的には、自分の辛さと他人の辛さを比較することなどできない。自分は、自分自身の辛さしか経験できない。もっと言えば、この世界には、現実としては、「自分の辛さ」しか存在しない、ということさえも言える。

もちろん、想像することはできる。でも、実際に体験して、痛みを感じている、確かな現実としての辛さは、「ここ」にしかない。だから、ある意味では、自分が世界で一番辛い、という感覚になるのも不思議ではない。

また、自分と他人は、全く違う存在でもある。同じ状況でも、その人によって、苦しみを感じる量も変わる。

比喩的に言えば、魚と鳥は違う。魚にとっては、海のなかは自由に呼吸ができる平気な場所かもしれない。でも、鳥にとっては海のなかは、とても生きられない。同じ状況でも、誰かにとっては平気であったり、まだ耐えられることであったとしても、別の誰かにとっては、到底生きられるような状況ではない、ということもある。

あくまで、その人にとって、今の状況が辛すぎる、という問題なのだから、他者との比較の押しつけは、何の励ましにもならないし、何の効果ももたらさないと思う。

強いてあげるとすれば、先ほどもちょっと触れたように、自分の辛い状況というものに意識が集中してしまっているのに対し、その意識をふと外に向けたり、引き離してあげる、という点では、その“方向性”自体は、一つの道としてあるかもしれない。

でも、その場合も、「もっと辛い人がいるんだから我慢しなさい」という言い方ではなく、まずは、その辛いという弱音を吐き出して少しすっきりするまで付き合ってあげた上で、海にドライブに連れて行ってあげたり、散歩に行ってなんでもない会話をするなど、一つのことしか見られない状態になって悪循環の連鎖に陥っているときには、話を聞いた上で、外側の視点や、広い世界を渡す、というのは一つの方法だと思う。

とは言え、今はもうみんな自分自身も辛く、余裕がない、ということも多い。辛いときに投げかける、「もっと辛い人もいるんだから」は、「こっちだって辛いなかで我慢しているんだから、お前も我慢しろ」ということの遠回しの表現、という面も大きいのかもしれない。

少なくとも、こちらが辛い状況にあって、そういうことを言ってくる人は、全く分からない人か、もう余裕がなくて本人も悲鳴をあげたい人なので、「期待しない」「頼らない」という以外にないと思う。

その上で、俯瞰で見たときに、この世が、「みんな辛いんだから我慢しろ、みんな苦しいんだから黙るべき、という状態」になっていること自体が、何か大きな間違いでもあるような気もする。

もちろん、生きていくなかで誰もが避けられないこと、乗り越えていかなければいけない悲しみもある。

一方で、もし、どんどんと、みんなが辛くなっているのだとしたら、余裕がなくなっているのだとしたら、それは、この世界の在り方が、何かおかしい、人間として息苦しくなる方向に進んでいる、ということでもあるのではないかと思う。