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違いがわかる男と感受性

記憶の底のほうで音楽とともに流れている「違いがわかる男」というフレーズ。よくコーヒーのCMで流れていた。なんのコーヒーだったかな、と思って調べてみると、ネスカフェのゴールドブレンドで、「ダバダ〜」という歌と、著名人の紹介VTRがあり、そして、「違いがわかる男のゴールドブレンド」といったナレーションが入る。このキャンペーンは、1970年から放送しているらしく、 歴代の「違いがわかる男」たちを見ると、映画監督、作家、歌舞伎役者、音楽家など、表現者が多い。表現者として、こだわりを持っている人を「違いがわかる」と称したのだろう。ただし、「違いがわかる男」というコピーは、途中から「上質を知る人の」「違いを楽しむ人の」など形が変わっている。そのためか、女性も登場するようになる。

画像 : ORICON NEWS

切り替わったのは、1980年代後半で、結構早いうちに「違いがわかる男」というコピーではなくなっているみたいだ。僕が物心ついた頃には、「上質を知る人の」が主流になっている。でも、なぜか記憶のなかでは、「違いがわかる男」という印象が強い。

最近、ふとこのフレーズを思い出した。と言うのも、「違いがわかる」ということは、感受性や表現にとって非常に大事なことだと改めて実感したからだ。たとえば、紙や布の手触り一つとっても、あるいは、音にしても、味にしても、繊細に違いを見分ける、ということが、表現における感受性というものが意味する大切な要素なのだと思う。そして、それは細やかに違和感を察知する、ということでもある。逆に、「違いがわかる」ことの反対は、「違いがわからない」「どっちも同じに見える」「どっちでも変わらないでしょ」といった態度であり、もともとの興味関心のなさというのもあるかもしれないが、どちらも同じに感じる、というのは、繊細な部分まで認識が届いていない、ということを物語っていると言える。

子供の頃に、良質なものや本物にたくさん触れることが良いのは、この良質なものや本物という判断の軸が、自分の感覚において構築されていくからで、それゆえに、大人になってからも、「違うな」と思ったときに、その「ずれ」という違和感が、そのまま「違いがわかる」ということに繋がるのだと思う。表現者の場合は、その「ずれ」を補正していくことによって、より完全なものに近づけることができる。ただ、自分の感覚のなかで、手触りや匂い、音などに関して、ある物事が入ってきたときには繊細に違いがわかるのに、別の経路から入ってくると鈍感になって違いに気づけない、ということもあるように思う。それはきっと、もともとの遺伝や体質に加え、どういった環境で育ってきたか、どういったものに触れてきたか、味覚で言えば、どういったものを食べてきたか、といったこととも大いに関係しているのだろう。

また、感受性が鋭いことによって、その鋭敏さに身体や心の余裕がなくてついてこないと、自らの鋭敏さによって心身のパニックが生じたりもする。ただ、このパニックというのも、ある意味では、正常な違和感の察知と言える。このときのパニックとは、広い意味では、なんだか気持ちが悪かったり、落ち着かなかったり、苛立ったり、体調が悪化したり、ということも含めた内側の「警報」でもある。そのため、そういった警報が鳴らないような、自分にとって穏やかな環境や状態を探っていく指針にもなる。「体の声を聞く」「心の声を聞く」というのは、こういった自身の内部に響く警報に耳を傾ける、ということでもあるのだろう。誰かが、言葉でもってそそのかしてきたり、情報で操作しようとしてくるかもしれない。頭が中心の世界だと、どうしても、その言葉や情報に左右される側面も大きくなる。でも、あくまで自分のなかの警報に耳を傾ける、違和感に気づく、ということが、重要になる。文章を推敲する際にも、書いたものを読み直し、自分のなかに芽生える違和感を探ることが、基本的な手法となる。

とは言え、この辺りのバランスは難しい。部分の違いにばかりこだわり、取り憑かれ、全体のバランスが崩れてしまってもよくない。しかし、そういった点に気をつければ、違いがわかる、という感受性は重要で、麻痺して鈍感になってしまっては違いがわからない。違いがわかるようになるには、情報に追われ、頭でばかり考えることよりも、また、「騒音」で麻痺してしまうよりも、誰もいない穏やかな空間で静けさを感じたり、本物に触れたりという機会を増やしていくことが大事なのではないかと思う。