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やぎさんゆうびんの歌詞と解釈

子供の頃に耳にし、印象に残っている、しろやぎさんとくろやぎんのやり取りを歌った童謡の一節。「しろやぎさんから おてがみついた くろやぎさんたら よまずにたべた」。

この歌は、詩人のまど・みちおさんの詩で、童謡として慣れ親しまれている『やぎさんゆうびん』の冒頭である。

歌詞の全文も、それほど長くはなく、お互いに「読まずに食べる」ために、用事が何か分からず、「ごようじなあに」と問いかけ、ある種、結末のない、無限ループで延々と続く構造になっている。

しろやぎさんから おてがみついた
くろやぎさんたら よまずにたべた

しかたがないので おてがみかいた
さっきのてがみの ごようじなあに

くろやぎさんから おてがみついた
しろやぎさんたら よまずにたべた

しかたがないので おてがみかいた
さっきのてがみの ごようじなあに

改めて歌詞を読む。まず、しろやぎさんの送った手紙を、くろやぎさんは読まずに食べる。読まずに食べたあとに、あっと気づき、手紙の内容を確認するために、「さっきのてがみのごようじなあに」としろやぎさんに返事をする。

そして、その手紙を、今度はしろやぎさんが、読まずに食べる。読まずに食べ、食べたあとに気づき、「さっきのてがみのごようじなあに」と手紙を書く。

この童謡を聴いたとき、子供の頃のおぼろげな記憶ながら、滑稽で面白いと感じた印象がある。それは、ユニークな習性のある動物の映像のような、可愛らしくて笑える、といった感覚だった。

しかし、大人になって読み返してみると、疑問が湧いてくる。たとえば、この「手紙のやりとり」は、一体いつ始まって、いつ終わるのだろうか。この「手紙のやりとり」には、一体どんな意味が込められているのだろうか。

個人的な解釈になるが、この『やぎさんゆうびん』が指し示すものは、「言葉」のコミュニケーションそのものではないか、と思えた。

以下、この「言葉」と『やぎさんゆうびん』の関連性について、3つのポイントに絞って書いてみる。

まず、1つ目のポイントが、先ほど触れたように、このやりとりはいつ終わるのかということである。やりとりの流れを見ていると、途中で、どちらかのやぎさんが痺れを切らし、家に「さっきのてがみのごようじなあに!」と訪れないかぎりは、恐らく延々と続くことが予想される。

そして、「延々と続く」ということは、「延々と続いてきた」ということでもある。

つまり、これは始まりから終わりに辿り着き、チャンチャンと終わるものではなく、「無限のなかの一瞬を切り取ったもの」だということだ。

付け加えると、白と黒の二色のあいだに主従関係があるわけでもない。しろやぎさんの手紙を、くろやぎさんが永遠に理解しない、というのではなく、互いに、ぐるぐると往復を繰り返すのである。

2つ目のポイントが、「読まなかったことで続く」という点だ。

しろやぎさんの手紙をくろやぎさんが読み、お返事を返して互いに理解し合ったら、「手紙のやりとり」はそこで終わる。しかし、互いに互いの伝えたかったことが(「読まずに食べた」から)理解できない。しろやぎさんとくろやぎさんは、永遠に理解し合うことができないのである。

ところが、実は、逆説的に、この「理解し合うことが叶わない」ゆえに、相手の理解を求めて繋がりは継続される。

言語的なコミュニケーションも、同じような側面がある。自分の思っていること、伝えたいことを「言葉」に包んで届けても、うまく伝わらない、理解されない、という不全感が残る。でも、その不全感ゆえに、「さっきのてがみのごようじなあに」と、互いの繋がりが絶えることがないのである。

3つ目のポイントが、読まずに「食べた」という点だ。

読まずに「捨てた」のでも、読まずに「埋めた」のでもなく、「食べた」、すなわち血肉となった。これは、ある意味、「読む」以上に「読んだ」と言える。

だから、「理解していない」「理解されていない」という届かなさの一方で、実は互いに、その「さっきのてがみのごようじなあに」と書かれた手紙(お互いに、手紙の内容は知らない)を内面化している、という言い方もできる。

しろやぎさんも、くろやぎさんも、互いの互いに対する「あなたのことが分かりたい」という想い(興味や愛情)を食べながら、同時に、「分からない」ということを抱えて手紙を送り続けるのである。

しろやぎさんから おてがみついた
くろやぎさんたら よまずにたべた

しかたがないので おてがみかいた
さっきのてがみの ごようじなあに

くろやぎさんから おてがみついた
しろやぎさんたら よまずにたべた

しかたがないので おてがみかいた
さっきのてがみの ごようじなあに

しろやぎさんは、くろやぎさんに「さっきのてがみの ごようじなあに(あなたのことが分かりたい)」と手紙を送る。

くろやぎさんは、その「あなたのことが分かりたい」という手紙を読まずに食べる(無意識に愛情を内面化する)。こうして無意識に、しろやぎさんが自分に愛情を持っていることが分かる。

しかし、一方で、(読まずに)食べてしまったことから、頭では手紙の中身が理解できない。くろやぎさんは、その中身が知りたくなり、しろやぎさんに、「さっきのてがみの ごようじなあに(あなたのことが分かりたい)」と手紙を送る。

相手が、自分に興味や愛情を抱いていることは感覚として分かりつつも、具体的な中身は把握できない。この把握できないことによって、互いの関係性は継続する。言葉のコミュニケーションも、こうした面を持っている。

この「やぎさんゆうびん」は、このような「言葉」のコミュニケーションを象徴する隠喩になっているのではないか、というのが僕の解釈である。

この解釈は、作者の意図とは違うかもしれない。ただ、以前、まどみちおさんのインタビューを纏めた『いわずにおれない』という本のなかで、「自由に読んでもらってかまわない」と仰っていたので、そのお言葉に甘え、幼い頃に聴いた歌詞の意味を、ちょっとだけ自由に解釈してみた。

似ていながら、厳密には分かり合えないゆえに、言い換えれば、僕たちは同じではないゆえに、違っているがゆえに、離れられずに、繋がり続ける、ということも言えるのかもしれない。