詩人が主題の映画
詩人のヴィスワヴァ・シンボルスカが、詩人というのはなかなか映画などの主人公にはならないといったような話を、ノーベル文学賞の記念講演のスピーチで語っていたことがある。シンボルスカは、ポーランドの女性詩人で、平易な言葉を使って詩を書く。僕にとっては、現代詩というと難解な表現が多すぎてとっつきにくい、といった感覚を払拭してくれた詩人でもあり、1996年にノーベル文学賞を受賞している(2012年に88歳で亡くなる)。以下は、その記念講演のスピーチのなかで語られた内容の一部になる。
偉大な学者や芸術家についての伝記映画が絶えずたくさん作られているのは、偶然ではないでしょう。野心的な監督たちの課題は、重要な科学的発見や芸術の最高傑作の成立へとつながった創造の過程を、いかにもそれらしく描きだすことです。
(中略)
最悪なのは、詩人たちの場合です。詩人の仕事は絶望的なほど、絵になりません。机に向かって座るか、長椅子に寝そべるかして、不動のまなざしでじっと壁から天井を見つめ、ときおり七行ほど書いたかと思うと、十五分後には一行消し、それからまた一時間が過ぎ、その間には何も起こらない……。そんな見世物に我慢できる観客がいったいどこにいるでしょうか。
ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』
確かに、と思いながら、シンボルスカのスピーチを読んでいた。詩人というのは、映画にすると難しいだろうなと思う。小説家だと、サリンジャーの伝記映画には感動した。サリンジャーは、小説『ライ麦畑でつかまえて』の作者で、突如として表舞台から消え去り、半世紀近く、世捨て人のように隠れて生きた。謎の多い作家でもあり、亡くなったのは2010年と、割合に最近のことだ。
ニコラス・ホルト主演『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』予告編
サリンジャーの場合は、小説家であり、書くことと人生の葛藤も含め、映画として面白い作品になり得たが、詩人の映画と言うと、なかなか思い浮かばない。一つ挙げるなら、フィクションではあるが、『パターソン』という市井の詩人を描いた静かな映画は、詩が題材の映画としては印象に残る素敵な映画だった。
『パターソン』予告
この映画には、日本人の詩人役として、永瀬正敏さんが、(登場シーン自体は少ないものの)絶妙な役回りで出演している。
詩人の漫画『最果てにサーカス』
それから、映画ではないが、漫画では、詩人の中原中也を題材にした『最果てにサーカス』という作品が、もともと中也が好きということもあり、心に沁みる作品だった。きっと中原中也はこんな人なんだろうな、というのが見事に表現されているように思う。
月子『最果てにサーカス』
この漫画では、中原中也と、友人で評論家の小林秀雄、そして中原中也の恋人だったが、途中で小林秀雄のもとに去る女優の長谷川泰子との、小林がのちに「奇怪な三角関係」と称する、複雑な恋愛模様を描きつつ、中也の詩や、彼にとっての詩とは、というものも描かれている。
大正十四年(一九二五年)、桜舞う春に作家を志す23歳の文学青年・小林秀雄は上京してきたばかりのまだ18歳の詩人・中原中也と運命的に出会う。
自意識の殻に閉じこもり、創作の迷路に入っていた 秀雄に衝撃を与えて、彼の生きざまを根っこから変えていく中也… そして中也には同棲する一人の女・長谷川泰子がいた――
事実を基にフィクションを交えて描き出す、 文学に人生すべてをかける中也と秀雄…
作中、中原中也が、重要な存在として描かれ、一巻の表紙も中也であるものの、主人公は、中也というよりは小林秀雄という側面が大きいのかもしれない。天真爛漫で天才肌の中原中也と、中也に劣等感を抱く学者気質の小林秀雄。冒頭のシーンでは、その葛藤が象徴的に描かれている。そして、その葛藤ゆえに、中也の恋人を奪う、という心理にも繋がっていったのかもしれない。小林秀雄は、中也の死後に書かれた、『中原中也との思ひ出』で、次のように書き残している。
大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。
(中略)
中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふ事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。
言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白といふ才能も思ひ出という創作も信ずる気にはなれない。
小林秀雄「中原中也との思ひ出」
この長谷川泰子という女性は、相当に神経症的でもあったようで、小林秀雄は、このあとに色々と苦労することになる。小林は、女性という存在によって、「書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。」とまで書いている。これは、賢く、理性で色々どうにかできると思い込んでいた、そんな夢を抱いていたが、女性と向き合うというのはそういうものではなかった、人間という複雑な存在は、理性で上手に切り分けて理解できるようなものではないことがわかった、といった意味合いではないかと思う。
月子『最果てにサーカス』
中原中也にまつわる漫画だから、ということに限らず、普通に漫画としても大好きな作品で、絵のタッチも好みなので、本来なら、中也に興味がない人にもおすすめしたい漫画の一つだ。本来なら、とつけるのには理由があり、残念ながら、この『最果てにサーカス』は第一部で打ち切りになっている。こんなに面白いのに、なぜ打ち切りなのか。悲しくなって理由を調べると、シンプルに、単行本の売り上げが芳しくなかったからのようだ。こればかりは申し訳ないなと思う。遅ればせながら単行本を全巻買ったものの、中原中也が好きな自分ですら、出版当時には漫画の存在自体知らなかったので、存在を知らない人も結構いたのではないだろうか。出版社も、そんなにすぐに人気の出そうな題材でもないのだから、打ち切りの判断は少し待って、根気強く続けてほしかったなと思うし、作者の頭のなかにある結末まで読みたかった。
完結は叶わなかったが、月子さんの『最果てにサーカス』は、数少ない、詩人を描いた名作の漫画だと思う。