最近、詩人の中原中也に関する本をぱらぱらと読んでいる。
中原中也は、今からちょうど100年ほど前の日本を生きた詩人で、30歳という若さで亡くなっている。
早くに死んだ、というよりも、中也の人生を最後まで生き切った、という印象を抱く。個人的にもともと好きな詩人の一人で、関連本は伝記も含めて色々と読んではいたものの、改めてゆっくりと知っていきたいという思いもあり、余裕のあるときに少しずつ読み進めている。
中也は、もちろん詩人として知られているが、まだ本格的に詩を書き始める前には、短歌も書いている。中也の両親も短歌を嗜んでいた影響もあってか、小学生の頃から短歌を詠んでいたと、中原中也の母親フクは、後年に語っている。
小学校の三年か、四年ごろから、おかしな歌を作りよりましたね。まあ、字あまりのところが多いんです。謙助(中也の父親)と私のつくる短歌と、中也の短歌じゃあ、だいぶ流儀がちがうんですね。
中原フク『私の上に降る雪は』
この頃の短歌は残っていないが、現存するもっとも古い中也の短歌としては、小学校6年生のときの「筆」という題名で詠まれた、「筆とりて手習させし我母は今は我より拙しと云ふ」という作品が残っている。
当時、『婦人画報』に短歌投稿欄があり、「筆」という課題で募集された際に、中也の歌が掲載された。
母親が、中也の習字の腕前を認めたことが詠まれた短歌だった。中也の習字も、とても達筆で、きっちりしている様子が伝わってくる(以下、画像右)。後に破天荒な性格でも知られる叙情詩人になっていく中也だが、神童と称されるほどの少年時代だった。
12歳の芥川龍之介と中原中也の習字です。芥川の16文字と中也の14文字の内、8文字が同じで嬉しくなります。芥川が、後年忌み嫌った「龍之助」と署名しているところにもご注目ください。 pic.twitter.com/tY4W6eRHvf
— 初版道 (@signbonbon) February 11, 2020
また、小学6年生の終わり頃に詠んだ短歌が、中也の地元である山口県の防長新聞(今はもう廃刊となっている)という地方紙の歌壇欄に掲載されている。
今でも新聞には短歌を募集している欄があり、短歌の世界を目指す人や趣味で嗜んでいる人など老若男女が投稿しているが、中也も、子供の頃に地元の防長新聞の歌壇に短歌を投稿していたようだ。
その新聞にも、中原中也の少年時代の短歌が、彼の13歳の誕生日を迎えた1920年4月29日に掲載されている。掲載当時は、中学生になっていたが、投稿自体は、中也がまだ小学生のときに送ったものだったようだ。そのとき防長新聞に掲載された短歌が、以下の5首になる。
子供心
菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ
ぬす人がはいつたならばきつてやるとおもちやのけんを持ちて寝につく
春をまちつつ
梅の木にふりかかりたるその雪をはらひてやれば喜びのみゆ
人にてもチツチツいへば雲雀かと思へる春の初め頃かな
小芸術家
芸術を遊びごとだと思つてるその心こそあはれなりけれ
子供心という短歌では、子供の日常が描かれている。と言っても、「菓子くれと」と始まる短歌には、弟が多く、長男だった中也の長男としての意識が伺える。
二つ目の「ぬす人が」という短歌は、中也本人ではなく弟のことではないかと言われている。「盗人が入ってきたら切ってやる」と威勢よく言っておもちゃの剣を持って眠る。そういう可愛らしい弟を眺めている大人の目がある。
春を待ちつつ、と題された二首は、爽やかで、いかにも季節を詠んだ、大人びた和歌の雰囲気を纏っている。最後の小芸術家とある短歌は、その生涯を通し、詩人として生き抜いた中原中也らしい短歌と言える。
石川啄木が、芸術は玩具と書き、中也も、後年、おもちゃだと書いているが、しかし、「遊びごと」ではない。芸術を遊びごとだと思うのは、哀れな小芸術家であって、自分は小芸術家ではない、という立派で力強い宣言なのだろう。
中原中也は、詩人としての矜持を最後まで持っていた。この歌壇の選者である石川香村は、中也の短歌に関して、「一読再読、子供らしくもあり、大人らしくもあるそれ程子供の純な感情が大人の如く巧に表現されている」と評している。
中也は、詩をつくるようになってからはほとんど短歌を詠んでいないが、全部で120首ほどを残している。中原中也にとって、日本の和歌や俳句や近代詩は、「歌う人の思いが入ってないからだめなんだ」と語っていたと、音楽評論家で若い頃に中也と交流のあった吉田秀和が書いている。
中原は、日本の俳句や和歌や近代詩について「どれも叙景であって、歌う人の思いが入ってないからだめなんだ」とよくいっていたが、この和歌には、彼を通じて流れる宇宙の秩序みたいなものがあったのではなかろうか。
吉田秀和「中原中也のこと」
叙景とは、風景を書き記す、という意味だが、もっと作り手個人の内面を込めるべきということだろうか。
思い出のなかで、「この和歌」とあるのは、百人一首にもある「ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらむ」という紀友則の和歌を指す。この歌は、現代語訳すると、「こんなにものどかな春の日に、なぜ花は落ち着いた心もなく散っていってしまうのだろう」という意味になる。
柔らかな春の日差しの中を、桜の花びらが散っていく。こんなにのどかな春の一日なのに、花びらはどうしてこんなにあわただしく散っていくのか、静める心はないのか、という歌です。とても日本的で美しい光景。そんな桜の美しさが匂うような歌といえるでしょう。
情景が目に浮かぶ、非常に視覚的で華やかな歌でありながら、同時に散り行く桜の哀愁もどことなく感じられます。
紀友則は古今集の撰者でしたが、この歌は、古今集の中でも特に名歌とされていました。
どうやら、和歌のなかで中原中也はこの紀智則の歌が好きだったようだ。
中学生、14歳の頃の中原中也
この後、いっそう文学に傾倒していった中也は、中学で落第することとなる。そのことに父親は酷く落ち込み、一方で、落第をきっかけに親元を離れ、京都の中学校に移ることとなる中也は、「飛び立つ思い」だと、むしろ肯定的に捉えていたようだ。
後年に綴られた中也の「詩的履歴書」によれば、「大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数篇に感激。」とある。
中原中也 その頃の生活/日記(一九三六年)他/日本図書センタ-/中原中也