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趣味

中原中也の小学生時代の短歌

中原中也の小学生時代の短歌

最近は、詩人の中原中也に関する本をぱらぱらと読んでいる。中原中也はもともと好きな詩人で関連本含めて読んではいたけど、改めてゆっくりと知っていきたいという思いがある。色々なことを焦りすぎないようにしなければいけない。

中也は、本格的に詩を書き始める前、子供の頃に短歌を書いている。中也の両親も短歌を嗜んでいた影響もあってか、小学3年か、4年生くらいの頃から短歌を詠んでいたと、中原中也の母親フクは後年に語っている。

小学校の三年か、四年ごろから、おかしな歌を作りよりましたね。まあ、字あまりのところが多いんです。謙助(中也の父親)と私のつくる短歌と、中也の短歌じゃあ、だいぶ流儀がちがうんですね。

出典 : 中原フク『私の上に降る雪は』

この頃の短歌は残っていないが、現存するもっとも古い中也の短歌としては、小学校6年生のときの「筆」という題名で詠まれた、「筆とりて手習させし我母は今は我よりつたなしと云ふ」という歌が残っている。

当時『婦人画報』で短歌投稿欄があり、「筆」という課題で募集され、中也の歌が掲載された。母親が、中也の習字の腕前を認めたことが詠まれた短歌だ。中也の習字も、とても達筆で、きっちりしている様子が伝わってくる(以下、画像右)。後に破天荒な性格でも知られる叙情詩人になっていくが、神童と称されるほどの少年時代だった。

また、小学6年生の終わり頃に詠んだ短歌が、中也の地元である山口県の防長新聞(今はもう廃刊となっている)という地方紙の歌壇欄に掲載されている。

今でも新聞には短歌を募集している欄があり、短歌の世界を目指す人や趣味で嗜んでいる人まで、老若男女が投稿しているが、中也も、子供の頃に地元の防長新聞の歌壇に短歌を投稿していたようだ。

その新聞にも、中原中也の少年時代の短歌が、彼の13歳の誕生日を迎えた1920年4月29日に掲載されている。掲載当時は、中学1年生だったが、投稿自体は、中也が小学校6年生のときに送ったものだったようだ。そのとき防長新聞に掲載された短歌が、以下の5首になる。

子供心
菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ
ぬす人がはいつたならばきつてやるとおもちやのけんを持ちて寝につく

春をまちつつ
梅の木にふりかかりたるその雪をはらひてやれば喜びのみゆ
人にてもチツチツいへば雲雀ひばりかと思へる春の初め頃かな

小芸術家
芸術を遊びごとだと思つてるその心こそあはれなりけれ

子供心と題された短歌では、子供の日常が描かれている。と言っても、「菓子くれと」と始まる短歌には、弟が多く長男だった中也の長男としての意識が伺える。二つ目の「ぬす人が」という歌は、中也本人ではなく弟のことではないかと言われている。そういう弟を眺めている、大人の目がある。

春を待ちつつと題された二首は、爽やかで、いかにも季節を詠んだ大人びた和歌の雰囲気を纏っている。

最後の小芸術家と題された短歌は、その短い生涯を通して、詩人として生き抜いた中原中也らしい短歌と言える。

石川啄木が、芸術は玩具と書き、中也も、後年、おもちゃだと書いているが、しかし、「遊びごと」ではない。芸術を遊びごとだと思うのは、哀れな小芸術家であって、自分は小芸術家ではない、なんとも立派で力強い宣言だろうと思う。彼はずっと詩人としての矜持のようなものを持っていた。

この歌壇の選者の石川香村は、中也の短歌に関して、「一読再読、子供らしくもあり、大人らしくもあるそれ程子供の純な感情が大人の如く巧に表現されている」と評している。

中也は、詩をつくるようになってからはほとんど短歌を詠んでいないが、全部で120首ほどを残している。

中原中也にとって、日本の和歌や俳句や近代詩は、「歌う人の思いが入ってないからだめなんだ」と語っていたと、音楽評論家で若い頃に中也と交流のあった吉田秀和が書いている。

中原は、日本の俳句や和歌や近代詩について「どれも叙景であって、歌う人の思いが入ってないからだめなんだ」とよくいっていたが、この和歌には、彼を通じて流れる宇宙の秩序みたいなものがあったのではなかろうか。

出典 : 吉田秀和「中原中也のこと」

叙景とは、風景を書き記すという意味だが、もっと作り手個人の内面を込めるべきということだろうか。

思い出のなかで、「この和歌」とあるのは、百人一首にもある「ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらむ」という紀友則の和歌を指す。

この歌は、現代語訳すると、「こんなにものどかな春の日に、なぜ花は落ち着いた心もなく散っていってしまうのだろう」という意味になる。

柔らかな春の日差しの中を、桜の花びらが散っていく。こんなにのどかな春の一日なのに、花びらはどうしてこんなにあわただしく散っていくのか、静める心はないのか、という歌です。とても日本的で美しい光景。そんな桜の美しさが匂うような歌といえるでしょう。

情景が目に浮かぶ、非常に視覚的で華やかな歌でありながら、同時に散り行く桜の哀愁もどことなく感じられます。

紀友則は古今集の撰者でしたが、この歌は、古今集の中でも特に名歌とされていました。

出典 : ちょっと差がつく『百人一首講座』

どうやら、和歌では、中也はこの歌が好きだったようだ。

中学生、14歳の頃の中原中也

この後、いっそう文学に傾倒していった中也は、中学で落第する。

そのことに父親はずいぶんと落ち込み、一方で、落第をきっかけに親元を離れ、京都の中学校に移ることとなる中也は、「飛び立つ思い」とむしろ肯定的に捉えていたようだ。

後年に綴られた中也の「詩的履歴書」によれば、「大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数篇に感激。」と書いてある。