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冬でも裸足の江戸時代の寝具、着る布団「夜着」

冬でも裸足の江戸時代

江戸時代の浮世絵のなかで、特に冬の雪景色の人々の様子を見ていると、ある不思議に気がつく。裸足であったり、脚を膝まで出していたりと、現在とは比較にならないほど、薄着に見える。足袋を履いている人もいるが、裸足も少なくない。

一枚目、雪が降っているなかで、首元は空いているし、裸足に下駄を履いている。二枚目も、一面雪景色で、どう見ても冬真っ盛り。お正月の様子らしく、江戸時代は旧暦なので、現代の2月初旬頃。場所は霞ヶ関で、雪かきの作業中ゆえに暖かいということもあるかもしれないものの、半袖半ズボンのような格好の男性もいる。三枚目は、雪だけでなく、風も強そうだ。頭巾をかぶり、マフラーのようにして首元に手ぬぐいを巻いている人もいる。寒いことは寒いのだろうと思う。でも、足元を見ると、裸足に下駄という装いになっている。現代風の「おしゃれは我慢」ということでもなさそうだ。

寒がりの自分からすると、見ているだけでも冷たくなるような服装で、もちろん、ニットのセーターやマフラー、コート、分厚いダウンジャケットなど、冬のアイテムとして不可欠な防寒具を着用しているわけでもない。なぜ、江戸時代の人々は、冬の外でも、こんなに薄着だったり素足でも平気だったのか、その理由についてはよくわかっていないようだ。体の鍛え方が違って、冬にも上手に対応できるような身体だったという可能性もある。昔の人は、昭和でさえも、だいぶ身体が違った、というのは言われているし、葛飾北斎も、おじいちゃんになってから物凄い距離を歩いている。子供が冬でも薄着で平気なように、基礎体温が高かったり、何かしらの身体的な要因もあるのかもしれない。

でも、浮世絵も、室内の様子を見ると、火鉢やこたつもあるわけで、必ずしも昔の人たちが歴然とした差があるほど、寒さに強かったわけではないのではないか、という気もする。

こたつもあるし、火鉢もある。なんなら室内のほうが厚着のようにさえ見える(猫がこたつの上で暖まっている)。冬の外で裸足でも、案外冷たくないのだろうか。雪は意外と冷たくないのか。ちょっとその辺はわからない(雪で裸足というのは試したことがない)。そう言えば、「犬は喜び庭かけまわり」というくらいだから、犬は寒さも割合と平気そうだ。子供の頃に飼っていた柴犬も、冬場に外でも問題なかった。もちろん、足元も、靴下がなくても大丈夫だった。どうやら、あの肉球によって守られているようだ。

「道路が雪でも凍っていても大丈夫です。犬の足にはちゃんと凍えないシステムが備わっているんですよ」と語るのは日本ヒューマン・ドッグウォーキング協会顧問で獣医師の田邊弘子先生。(中略)これは寒い地域で暮らすペンギンのくちばしやイルカのひれなど他の多くの動物にも見られる仕組みだそうです。このことから犬の祖先は寒い地域に棲んでいたのではないかという説もあります。

犬の肉球が裸足でも凍えないのはなぜ?|ウェザーニュース

人間には肉球はないが、寒さに対する体の対応力というのは、どうなっているのだろう。全く対応できないようなら、そんな生き物はとうに絶滅してしまっているだろうから、ある程度は幅広く対応できるようになっているのかもしれない。僕は、あの空気が苦手ということもあり、基本的にエアコンや暖房の類は使わないが、寒がりであることには変わりはないので、たくさんの冬服を着込んだり、毛布にくるまっていることも多い。でも、あまりに外側から補い過ぎると、身体の側が対応する力を弱めてしまうというのはあるのだろうなと思う。だから、そういう意味では、やはり身体の差というのも大きいのかもしれない。

 

着る布団「夜着」

この江戸時代の冬の服装や裸足への興味から、同時に、その時代の寝具についても気になってきた。以前、実家で使った和布団が、普段家で使っている毛布や羽毛ぶとんと比較しても、だいぶ暖かかったことを思い出し、昔はどんな布団で眠っていたんだろう、という点が疑問に思ったのだ。

江戸時代には、毛布や羽毛布団もなかったわけで、一体どんな布団を使っていたのだろうか。調べてみると、当時は、掛け布団のようなものはなく、寝るときに、「夜着よぎ」という綿が詰まった着物と布団が一緒になったようなものを寝具として使っていたようだ。現代でも、「着る毛布」というのが商品として発売されているが、言わば「着る布団」みたいなものだろう。今でも、東北などでは使われていると言う。夜着と似たもので、かい巻きもあり、同じく着る布団のようなものだが、厳密には両者には違いがあり、かい巻きの方がちょっと小さめで「小夜着」と呼ばれるそうだ。

夜着と似たものに「掻巻かいまき」があります。こちらも着物の形をした広袖付きの寝具の一つです。夜着に比べて綿が薄めに入っており、袖付の下に三角形のまちの火打布がありません。夜着より小ぶりなため、別名は「小夜着」。

夜着は掛け布団として、掻巻は掛け布団の下に入れて用いました。どちらも肩を包む形になるので防寒に適しましたが、第2次世界大戦後は毛布の普及により、需要が減っていきました。
夜着、掻巻ともに、冬の季語です。

季節の言葉「夜着」

僕も子供の頃、実家にかい巻きがあったな、ということを思い出した。地域的なものなのか、昭和の終わり、平成の頭くらいには、まだ多少一般的だったのだろうか。そのかい巻きは、大人用のものだったので、子供の僕にとってはサイズとしては大きかったが、袖がついた、着られる布団で、どこか包まれている安心感があったように思う。父親は、このかい巻きのことを「丹前たんぜん」と呼んでいた。丹前は、防寒用の上着であるドテラを意味するものの、地域によっては、かい巻きを丹前と呼んでいたようだ。夜着はどんなものだったのか、写真を探してみたら、昔の夜着のコレクションもある、「砥部むかしのくらし館」という場所が愛媛県にあった。

画像 : 砥部むかしのくらし館

家紋も含めて、色々な装飾の夜着がある。写真で見ていると、厚みがあって暖かそうというだけでなく、そのデザインのおしゃれさにも驚かされる。これは庶民の使っていた夜着ということなのだろうか。色味も模様も、素朴にかっこいいと思える意匠になっている。他にもたくさんの夜着が掲載されているが、どのデザインも今と比較して全く見劣りすることなく、モダンな雰囲気さえある。

掛けふとんとして登場したのが「夜着」です。こちらも17世紀半ば頃から上・中流階級の武士や町人の間で愛用されるようになり、時代が下ると庶民にも広く普及しました。

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また、文化遺産として「文化遺産オンライン」に掲載されている夜着は、趣の異なる日本的で美しい雅なデザインになっている。

夜着 萌黄縮緬地梅橘模様

模様の読み方は、萌黄縮緬地梅橘模様もえぎちりめんじうめたちばなもようと読むようだ。これは庶民の雰囲気でもないので、上流階級の人たちが着ていた夜着なのかもしれない。夜着は、体に沿っていることから隙間もなくなり暖かいと言われている。寝るときは、袖に腕を通さずに掛け布団のようにして掛け、トイレに起きるなど動くときに、着物のようにして袖に通して着る、といった形だったようだ。海外の伝統文化でも、「着る布団」というのがあるのかは分からないが、布団を着たまま動きたい、という発想は共感できる。てっきり怠け者の発明家でもいたのかと思いきや、鎌倉武士が、幕府の警備として寝ずに行う際に、服に綿を入れて寒さを防いだことが起源のようだ。

私たちの健康の源、睡眠。そして良質な眠りに欠かせないのが「布団」だが、その起源は、意外にも鎌倉武士のお勤めと深い関係がある。

(中略)

鎌倉武士には夜、幕府の警備として寝ずの番につくお役目(宿直とのい)があった。武士は宿直の際、寒さを防ぐために平常服(直垂ひたたれ)に綿を入れた服(直垂衾ひたたれふすま)を用意し、これを着て勤めにのぞんでいた。

その後江戸時代になり、綿の普及に伴い、肩まで隠れ保温性の高い直垂衾は、「夜着よぎ(かいまき)」として、眠る時に身体の上に掛ける形で使われるようになった。

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それから、いわゆる掛け布団は、江戸時代後期の関西にかけて使われ始めたようで、この頃の庶民は、「紙衾かみふすま」と呼ばれる和紙で作られた布団を使っている人もいたと言う。この和紙のなかに入れていた素材は、藁が主で、和紙の布団は、「軽い、暖かい、丈夫、安い」と重宝されたそうだ。

四角い和紙に藁クズを入れ周りを縫ったこの掛けふとんは「紙衾かみふすま」と呼ばれ、江戸は芝にある天徳寺というお寺の門前で売られていたので別名「天徳寺」ともいいました。

和紙のふとんは「軽い、あたたかい、丈夫、安い」と4拍子そろった優れもので、持ち運びの便利さから旅人にも重宝され、かの俳聖・松尾芭蕉も紙衾愛用者だったといいます。

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紙衾、和紙に詰め込んで布団にする、という発想も面白い。その後、夜着が、明治時代には、掛け布団になっていくという流れのようだ。この辺り、江戸時代から明治にかけての夜着と紙衾の共存というのが、季節によって違うのか、地域や貧富によって違うのか、時代によって微妙に違うのか、歴史に関する記事を読んでも、どうなっていたかはよく分からなかった。

夜着、かい巻は、衿、袖のついた夜具用の綿入れで、体になじみ、肩からのすきま風を防ぐので肩の保温に適しているが、一般に使用されなくなってきている。これは、製作に技術を要するために製作者が少なくなっていることと、簡便な毛布の利用が多くなったためである。最近、毛布で肩を覆う夜着風に手を加えたものもできている。婚礼用の組み夜具には、現在も夜着またはかい巻がつくられている。

(中略)

近世において木綿綿の普及により、直垂衾から発展した夜着とふとんが用いられるようになって、今日に至っている。

夜着は夜寝るときに着るもので、宿直物が改められ、これをもっぱら用いるようになったのは慶長・元和げんな(1596~1624)以後である。これ以前は小寝衣といって裳の衣服より少し大きいものを着て、その上に衾をかぶって寝ていた。衾は臥裳の意で、寝るとき身を覆うものである。のちにはふとんといわれているものである。多くは絹綾などでつくり、長さ8尺(約240センチメートル)、広さ八布あるいは五布で、首のほうには紅の練糸を太く撚って二筋並べ横に縫い、今日いう枕上の印とした。

紙衾は和紙でこしらえた衾で、軽く、暖かく、安価で、じょうぶであることなどから、古く民間で多く用いられた。産地は奥州仙台、駿河安倍川であった。旅などには、簡単で持ち歩きに便利なため重宝された。江戸時代、江戸では紙衾を天徳寺といって、江戸中期ごろまで行商していた者があったが、のちにはとだえた。

寝具|日本大百科全書(ニッポニカ)

江戸時代ではふとんと言えば敷ふとんの事を意味した。掛けふとんにあたる物は衾(ふすま)ないしは夜着(よぎ)であった。この区別ははっきりしたもので混同される事はなかった。現在のような形の掛けふとんは江戸時代も相当後半である。

(中略)

夜着(かいまき)は江戸時代に普及しました しかし関西では衾(四角い掛け具)⇒夜着⇒現在の掛け布団と変化してしまいました。

したがって関西の人は夜着(かいまき)を見るとびっくりしてしまうそうです。

ふとんの歴史

夜着や紙衾は、いつか直接使ってみたいなと思う。