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映画『告白』のウェルテルみたいな熱血教師が苦手だった

どこの学校にも、一人や二人はいるのかもしれない。若い男性で、明るかったり、運動が得意な雰囲気を纏い、男子からも女子からも好かれ(ているように少なくとも見え)、全体的に好感度の高いタイプの教師。

昔、湊かなえの小説『告白』の映画を観たことがある。原作は読んではいないが、映画に関しては面白かった。その頃、僕は本屋でバイトをしていた。レジに立っていると、映画のプロモーションのために本屋の備え付けの小さなテレビで流れる、『告白』の予告編の音が聴こえてきた。店のBGMのように、繰り返し流れていた。書店で映画の予告編を流すというのは、僕の知るかぎりでは、『告白』が初めてだった。何度も何度も繰り返し流れていたので、半ば洗脳のようになっていたのか、次第にどんな映画か気になり、興味を持つようになった。映画自体は、僕は結構好きだった。もともとCM業界の人である中島哲也さんという監督(この監督の作品は『下妻物語』も観た)で、いわゆる物語っぽい映画とは違う、テンポのよい作品だった。『告白』は、舞台が中学校で、サイコミステリーっぽく、暗い雰囲気も漂うものの、必ずしもずっと低体温のわけでもなく、映像美や音楽も巧みに使われた、妙な昂揚感やテンポが絶妙に合っていた。

登場人物のなかに、若くて明るい、ウェルテルというあだ名の男性教師がいた。ウェルテルという呼び名は、本名が寺田良輝で、良(ウェル)輝(テル)と学生時代に呼ばれるようになったことに由来する。彼は、生徒たちにも馴れ馴れしく接する。また、映画のなかに細かな説明まであったかはっきりとは覚えていないが、愛読書だったゲーテの『若きウェルテルの悩み』に引っ掛け、「別に悩んでるわけじゃないぞ」と冗談を言う。映画を観ながら、ああ、こういう教師いるな、という嫌悪感を抱かせるのに充分な存在だった。別に悪いやつ、というわけではないものの、浅はかで、軽さがあり、絶妙に「うざい」存在として描かれている。それはウェルテルを演じていた俳優の岡田将生さんの演技力も大きかったと思う。

僕が通っていた小学校や中学校にも、そういうタイプの熱血教師型の先生はいた。ただ、熱血教師と言っても、「不器用タイプ」と、「器用タイプ」とにも分かれるような気がする。不器用タイプは、いわゆる運動部の顧問みたいな、昔ながらの先生で、一方の器用タイプは、若くて明るく、子供たちに取り入るのがうまい、といったタイプの先生だ。後者は、人気もあり(ウェルテルは人気がなかったが)、現代的な軽さもある。「熱血教師」という表現が、必ずしも当てはまっているとは言えないかもしれない。

いずれにせよ、どちらも苦手だったが、特に後者のほうが、僕は嫌いだったように思う。小学生の頃、確かあれは4、5年生くらいだった。若い熱血教師っぽい先生が、あるクラスの担任になったとき、その先生の名前が呼ばれた瞬間、生徒たちがうれしそうに喜びの声をあげていた光景が、今でも記憶に残っている。あのとき微かによぎった嫌悪感が、一体何に対する嫌悪感だったのかは自分でもよく分からない。そのときには、このタイプの熱血教師が僕のクラスの担任ではなかったものの、6年生のときに、別の人気者タイプの若い男性教師が担任になった。その4、5年生くらいの頃は、羨ましいことの裏返しという解釈も出来るかもしれない。でも、実際に担任としてそういう先生と接してみても、やっぱり僕は好きにはなれなかった。より年齢が近い上に、同性ということもあるのか、取り入っている様が露骨に見え、なんとなく嫌な感覚があったのかもしれない。また、ある人たちとは仲良く接し、ある人たちには親身になり、その他は“その他大勢”のように放って置いているような印象を抱き、加えて、特定の人に対して冷たい目をしているような、僕自身もそういう眼差しで見られていたような感覚もあり、着飾っている明るさとのギャップに対する、子供心ながらの素朴な違和感や警戒心もあったのかもしれない。

中学生になっても、そういうタイプの先生は苦手なままだった。僕は途中で不登校になったものの、担任の熱血教師型の先生の、言葉による情熱と態度とのあいだのギャップを察知し、苦しくて仕方がなかったときでも、頼るという気持ちにはなかなかなれなかった。好感度の高いタイプの若くて“面白い”男の先生と、みんながそれを楽しい、面白いと捉えている空気感とが苦手で、嘘くさく思えた。ああいった空気や温度感にうまく入れない自分への苛立ちや、寂しさもあったのだろうか。ただ、嘘くさい、不自然だ、という心情も強くあったし、どこか冷めていた、というのもあるのかもしれない。

今でも、テレビで人気の好感度が高い人、みたいな存在への苦手な感覚は残っている。もちろん好きな人がその人を好きであることは否定しない。ただ、僕のなかでは、あのときの延長線上として、現在も、そういった対象への抵抗感や苦手意識があるように思う。そんな風に考えていると、苦手なのは、必ずしも、「熱血教師だから」というわけではないようにも思える。むしろ、熱血ではない、ということを売りにするタイプも含め、距離感が近い人や、軽さが伝わってくる偽善的な人、嘘くさく明るい雰囲気が駄目だったのかもしれない。

変に着飾らない弱い人のほうがいい、暗くてもいい、なるべく自然体がいい(自然体で明るい人や、心底の熱血教師なら、ただ個人的に馴染めないということはあったとしても、嫌悪感には繋がらないのかもしれない)。そういう人との静かな繋がりがいい。きっと、あの「不自然に灯った明るい世界」そのものへの馴染めなさもあったのだと思う。と言っても、人間はそんなにはっきりと区分けできるわけでもないので、苦しいな、苦手だな、そんなときの自分が好きではないな、と思いながら、その世界に自分自身含めて多少なりとも染まって生きていくしかない、というのもある。