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ガラスのコップに熱湯を注いで割れた冬の朝

朝からずっと寒い。立春を過ぎても、特に春めいた様子は微塵も見られず、いっそう寒く、雪の予報も出ている。ニットを着込み、湯たんぽを足元に置き、それでも震えながら、作業をしている。しかし、これでは敵わないと、温かい飲み物を飲もうと思い、鍋に水を入れて火をつけ、白湯を作る。沸騰させ、早く飲みたいからと少しだけ冷ましたら早々に普段使っている琉球ガラスのコップに注いだ。その瞬間、メリ、メリメリメリ、と卵から雛でも孵るのか、あるいは地面でも割れるのかというような生々しい音が聞こえ、思わず手元のコップから離れた。

いつも飲み物を飲むときは、それが温かいものであっても、なんであっても、昔お土産にもらった琉球ガラスのコップを使うことが多い。もう15年くらい使っている。引っ越しのたびに、必ず持っていってる。そのうち割れるんじゃないかという思いはありつつも、どうしてもこれで飲まないと落ち着かないという心理的な要因もあり、温かいものも含めてずっとこのコップを使っていた。

だから、割れた(割れたと言っても、パリンと崩れたわけではなく、ヒビが入り、そのヒビが広がっていった)ことは、結構ショックだった。それから、今までどうもありがとうという思いと、いろいろ無理させてごめんねという気持ちを抱いた。

そもそも、なぜコップが熱湯で割れるかと言うと、原因としては温度差が大きいらしく、大体の目安は60度くらいだと言う。確かに、部屋の温度は12℃くらいで、お湯は、沸騰してからまだ間もない段階で注いだので、それくらいの温度差はあったのかもしれない。

コップを落として甲高い音を立てて割れるときも、精神的に堪えるものがある。「あっ」と思ったとき、一瞬心がひゅっとなる。先に生じる悲劇的な事態を即座に予感する。そして、その予感を追い越していくように、すぐさま激しい音と飛び散った破片の姿が視界と鼓膜を襲う。不注意でコップが割れる、という一連の出来事は、人生における一つの比喩になっている。こんな経験を過去にしたのか、映画や小説で見たのか、ニュースで読んだのか、これから起こるのか、そういったことも含めて、何か心の奥底を揺さぶってくる。

一方で、ずっと使っていたコップが、突然手元でメリメリと言い出すという割れ方も、これはこれで堪えるものがある。特に、思い入れがあって長年愛用していたものだと余計に、一つの時代が終わった感さえある。

そんなことを考えていたら、窓の外では雪が降っていた。個人的には、この冬初めて雪を見た。割れたコップを片付けて、湯呑みに温め直した白湯を入れて飲んだ。