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原始さんと究極薬品

原始さん

漫画家の水木しげるさんの代表作『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメでは、1972年公開の第40話で、「原始さん」という妖怪が登場する。原始さんは、もともと水木さんがアニメ版放送以前に発表した『原始さん』という短編漫画に由来する。昔、図書館で読める漫画ということで探していたときに出会った『水木しげる―珠玉民話集』に入っていた。その内容を読むと、行きすぎた文明に対する水木しげるさんの批判的な眼差しや自然観がはっきりと描かれていた。

水木しげる『原始さん』

まず、『原始さん』のあらすじを簡単に紹介したいと思う。

漫画『原始さん』の舞台は、当時から見た近未来である1985年の東京だ。高層ビルが建ち並び、大量の車が道路を走り、会社員が電車に詰め込まれる慌ただしい文明社会。そこに突如として類人猿のような巨大な化け物が現れる。化け物は、「はっはっはっ」と愉快そうに笑いながら、ビルを次々と叩き壊し、人々の生活を破壊しようとする。日本政府は、ただちに自衛隊を投入して、この化け物に応戦を試みるものの、全く歯が立たない。これほど強大な化け物の正体について、果たして「カミ」か「ヒト」か、と悩んだ末、政府はひとまず「さん」付けで、「原始さん」と呼ぶことにし、「好意的静観」をすることに決める。原始さんは、毎年のように建物や舗装道路を壊していく。そして、壊しては、土を耕し、木を植え、虫を守り、鳥を育てていった。

水木しげる『原始さん』

次第に、東京も、自然を取り戻していき、人々が患っていた肩こりや胃痛のような慢性的な病も消えていった。原始さんのおかげで、すっかり穏やかな暮らしをするようになった日本人のもとに、あるとき、アメリカから要請が届く。その要請の中身とは、「文明の発達に耐えかねて、アメリカ人が集団ノイローゼになった」というもので、ぜひ日本の原始さんをアメリカに派遣してくれ、とアメリカは懇願する。原始さんは、このアメリカのSOSに応え、悠々と海を越えていく。大海原を、波音を立てながら威勢よく進んでいく原始さんの姿に、ある語りが添えられて物語は終わる。

昭和60年頃には、文明というやつが、人間にとって”そんなに”わずらわしくなっていたのだ。

水木しげる『原始さん』

これは漫画版の『原始さん』で、一方、アニメ版『ゲゲゲの鬼太郎』で、妖怪として登場した「原始さん」のストーリーは、漫画版とは少し異なっている。

アニメ版では、都心部で生じた光化学スモッグの問題の影響もあり、もう少し時代性と関係が深いものになっている。また、日本の「偉い人たち」と原始さんが交渉する、という話も途中に挟み込まれている。人間と原始さんの交渉の末に、山の手線の内側は、原始さんの住み良い世界にする代わりに、外側は文明社会を継続する、という形で一度はまとまる。

言ってみれば、近代社会と自然の世界との折衷案ということだろう。しかし、結局「偉い人たち」が、原始さんを追い出そうとして攻撃を仕掛ける。原始さんは、その態度に、ついには愛想を尽かし、海のなかにゆっくりと消えていく。帰り際、原始さんは言う。

俺が来るのは早すぎた。きっと、いつか人間は、自然を破壊してしまったことを、一人残らず後悔する。そのときになったら、また来よう。

水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎〈原始さん〉』

以上のように、漫画版だと、日本は行き過ぎた文明の弊害から、原始さんの登場によって自然に還る。また、同じように集団ノイローゼになっているアメリカのもとに向かって海を渡っていく。一方のアニメ版では、一度は文明と自然の折衷案が提示される。しかし、結局は攻撃を受ける原始さんが、「来るのは早すぎた、いつか人間は、一人残らず後悔する。そのときになったら、また来よう」と残し、海のなかへと消えてゆく。漫画のほうが、水木さんにとって、より理想が描かれ、アニメでは、テレビというまさに現実的な要求の末の折衷案として、こういう形になったのかもしれない。

 

究極薬品

もう一つ、水木しげるさんの文明に対する批判的な視点が分かる作品として、『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズのなかで「究極薬品」という言葉が出てくる回がある。「究極薬品」とは、その薬品一つでどんな病気もこの世から無くなるという薬で、ある製薬会社の社員が、「究極薬品」を作ることが目標だと語っている。ところが、その究極薬品について聞いた父親であり社長が、そんなものを作ったら、製薬会社は全滅する、と怒る。「我々は薬を作り、その薬の副作用によって病気が増え、さらにその病気を治すための薬を作る。こういう流れによって、製薬会社の業界も発展するのだ」と社長は語る。

これは、アニメとしては1971年に放送された、『ゲゲゲの鬼太郎』の『心配屋』というタイトルの回で描かれる。

製薬会社の社長が、平凡な息子で社員の凡太に対して、非凡な才能を授けたいと鬼太郎のもとを訪ねる。しかし、妖怪の力でそうなったとしても、人間としての尊厳を失うと目玉の親父に一喝され、社長は諦める。その後、ねずみ男が、心配屋と称し、その社長の願いを叶えようと近づき、息子を非凡な性格に変える。その結果、“モーレツ社員”になった息子は、その非凡さによって、この世のすべての病気に効果を発揮する「究極薬品」の開発に励む。このことが、父である社長との対立を生み、先ほどのようなシーンとして描かれる。皮肉混じりとは言え、ここまで漫画やテレビで直接的に描けるというのが、水木しげるさんの凄さではないかと思う。

この究極薬品の回について書かれた、次のような記事がある。

製薬会社の商品は薬 → 薬は病気を治すことが目的 → 病気が治ると薬は売れない。つまり、客を減らすことが目的となっている営利企業なのである。それは医療も同じで、医者は病気を治すことを目指すが、病気が治ってしまうと患者は来なくなり、収入も減る。だから、上手に生かさず殺さずの状態に持っていくのが、医療経営の要諦となる。がんや慢性病の治療はだいたいがこのパターンだ。

出典 : きかない薬を作るのが我々の崇高な使命なんだ(製薬会社の社長)

実際に、営利企業である以上、究極薬品が存在したり、また人々の健康意識が高まって病院に行かなくなったら(原始さんによって慢性病が落ち着いていったら)、その産業は衰退する。少なくとも、規模は縮小される。しかし、それは人々にとっては本当は幸福なのかもしれない。