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吉野弘『祝婚歌』

正しいことを言うことが、必ずしも正しいとは限らない、ということをときどき思う。

それは、「正しさ」というものが、時代や立場によっても違うから、ということだけでなく、「正しさ」という絶対的な担保によって、他者へ向けた言葉の速度にブレーキがかかりづらくなったり、「正しいことを言う」ことそのものに伴っている重たさが、ときに武器のような攻撃性に繋がってしまうこともあるからだ。世の中は、たった一つの正解だけがあり、その正解を正しく論じさえすれば、あとは正しく受け取らない相手が悪い、というほどに、単純にはできていない。それは難しい哲学を学ばなくても、歴史の教科書を一から読まなくても、自分の心と、身近な人の心と向き合ったら、それだけで十分わかる(自分の心及び他人と向き合うということが教えてくれることは、本当に多い)。

僕が、僕の思っていることを、相手に向かって言ったら、まだブレーキがかかる。これは個人的な考えだから、それが正しいかどうかなんてわからないよな、という躊躇いも生まれるし、偉そうに何か言えるような立派な人間でもないよな、という後ろめたさも生まれる。仮に、この意見が正しかったとしても、今それを言うことが正しいかはまたもう一つ別の問題だよな、という気持ちも芽生える。誰だって余裕がないときは弱くなるものだ。今言わなくてもいいことかもしれないな、と思う。そんな風にして、言葉の鋭利さが、ちょっとずつ柔らかくなっていく。

吐き出すときに、ちゃんと「自分」を通すと、言葉はそこまでは暴走しない。自分が未熟で、未完成で、相手だって未熟で、弱さがある。そのことを思い出す。もしも言葉で殴ってしまったら(殴ってしまうほどに向こうに強く響いてしまったら)、自分の心も痛くなる。自分も痛くなる、というのは大事だと思う。正しさは、ちょっと機械の兵器にも似ている。拳とは違う。自分を通していない面がある。それでも、より大きな敵なら、強い敵なら、そういった装備が必要になることもあるのかもしれない。これだって、絶対の正解とは思わない。ただ、正しい意見を言おうとした瞬間、〈正しいもの〉と〈正しくないもの〉という、なにか手触りや複雑さの欠けた存在同士のやり取りになってしまうような怖さがある。だから、少なくとも身近な人に対しては、この「正しさが、必ずしも正しさではない」という、一見するとややこしい発想を、持っていてもいいのではないかと思う。

この話について考えるときに思い出す詩がある。詩人の吉野弘さんの代表作として有名な『祝婚歌』だ。読み方は「祝婚歌しゅくこんか」で、文字通り、結婚を祝福した詩で、作者の吉野弘さんが、姪夫婦の結婚式に仕事の都合で出席できなかった際に、新郎新婦に向けて贈った詩だという。詩集『風が吹くと』(1977年)に収録されている。この詩は、作者の名前は知らなくても、一度は聞いたことがあるというくらいに、結婚式のスピーチなどで朗読されることも多い作品と言われている。以下が、『祝婚歌』の全文になる。

『祝婚歌』

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派過ぎないほうがいい
立派過ぎることは
長持ちしないことだと気づいているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気づいているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず
ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

吉野弘『吉野弘詩集』

この『祝婚歌』を書いたのは、吉野弘さんが50歳くらいで、結婚して20数年が経っていた頃のことだった。吉野さんの娘さんが、父は、詩人になりたいという夢を理解し、ついてきてくれた妻には感謝の思いがあるはずだとしながら、しかし同時に、自分が子どもの頃には、よく夫婦喧嘩もしていたと書いている。激しく喧嘩をして、あっという間に元に戻ったそうだ。それこそ、変に肩肘張らずに、その都度衝突しては仲直りする、ということによって二人のバランスが保たれていたのかもしれない。

そんな夫婦の日々のことも思い出しながら、書いていったのだろうか。普段は、じっくり時間をかけ、完成した後も書き直しを行うことが多かったという吉野さんが、この『祝婚歌』に関しては、一気に書き上げ、書き直すこともなかったそうだ。

詩の冒頭、「二人が仲睦まじくいるためには/愚かでいるほうがいい」という言葉で始まる。また、正しさについて、こんな風に書かれている。「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい」この言葉自体が、正しさの押し付けにならないように、あくまでも一つの視点として優しく提示されている。そして、この詩は、全体を通して、愚かで不完全だからこそ、そのことを自覚しながら、ゆらゆらと揺れながら、そのことによって、末永く関係性が続いていくということが描かれている。これは、吉野弘さんの『生命は』という詩にある、生命は欠如しているからこそ他者から満たされることで成り立っている、という考え方とも通底しているように思う。完璧であることは、何か不自然で無理をしていることであり、無理をしていたら、どこかで破綻が訪れる。それは、夫婦の関係だけでなく、友情や、自分の心の問題でも言えることなのかもしれない。ただ、最後の文章に関しては、長年連れ添った二人にしかわからない、奥行きのある心情のように思える。

健康で
風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

わかるのであってほしい、ということは、あなた方二人に、ということであり、人生の先輩夫婦からの、願いであり、祈りであり、「祝婚歌」という題名にふさわしい終わり方ではないかと思う。

ちなみに、『祝婚歌』の著作権について、吉野弘さんが、過去にこんなことを対談の席で語っている。

早坂 吉野さんは「祝婚歌」を「民謡みたいなものだ」とおっしゃっているように聞いたんですけど、それはどういう意味ですか。

吉野 民謡というのは、作詞者とか、作曲者がわからなくとも、歌が面白ければ歌ってくれるわけです。だから、私の作者の名前がなくとも、作品を喜んでくれるという意味で、私は知らない間に民謡を一つ書いちゃったなと、そういう感覚なんです。

早坂 いいお話ですね。「祝婚歌」は結婚式場とか、いろんなところからパンフレットに使いたいとか、随分、言って来るでしょう。 ただ、版権や著作権がどうなっているのか、そういうときは何とお答えになるんですか。

吉野 そのときに民謡の説を持ち出すわけです。 民謡というのは、著作権料がいりませんよ。 作者が不明ですからね。こうやって聞いてくださる方は、非常に良心的に聞いてくださるわけですね。だから,そういう著作権料というのは心配はまったく要りませんから……

早坂 どうぞ自由にお使いください。

吉野 そういうふうに答えることにしています。

早坂茂三『人生の達人たちに学ぶ~渡る世間の裏話』

作者が誰かも分からずに伝わっていく民謡のように、結婚式のパンフレットやスピーチなどで自由に使って構いません、という風に吉野さんは話す。素敵なお話だなと思う。