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北条民雄の童話

北条民雄

北条民雄という小説家が気になり、随筆を読んでみたく、岩波文庫の彼の書いたものが収録されている本を買った。北条民雄の言葉の断片を、SNSでたまたま読んだことがきっかけで興味を持ったので、もともとどういう作家なのか知っていたわけではなかった。

北条民雄は、1914年に生まれ、1937年に、23歳という若さで亡くなっている。死因は腸結核だったようだ。19歳のときにハンセン病の宣告を受け、隔離された療養所に、亡くなるまで入所することになる。その当時、ハンセン病というのは不治の病、遺伝的伝染病として偏見や差別の対象となり、そういう状況のなかで北条民雄の作品は書かれた。僕自身、今はちょっと体力的にあまり長く文章を読むことができないので、ひとまずこの本に収録されている二作の童話を読んだ。作品は、『可愛いポール』と『すみれ』という題名の短い童話で、内容としては小学生でも読めるような平易な文章で書かれている。

 

『可愛いポール』

最初の『可愛いポール』とは、ポールという名前の子犬と、ミコちゃんという子供のお話だ。

ポールとミコちゃんはとても仲良しだった。というのも、ミコちゃんが、殺されそうになっていたポールを助けたからだ。ミコちゃんが、ある寒い日の夕方、お父さんの手紙を持ってポストまで出かけた際、ポストの横で、大勢の人がワイワイと言い、犬の悲しい声も聞こえてきた。ミコちゃんが近づいてみると、そこでは野犬狩りをしていた。野犬狩りが、「まだ朝から20匹しか捕らんぞ」「うん。もう10匹は捕りたいなぁ」と話している。ミコちゃんはぞっとした。荷車の箱のなかでは、子犬たちが悲しそうに鳴いていた。

そのとき、まだ生まれて間もない小さな子犬が駆け寄ってきた。野犬狩りの二人は、その子犬を挟み撃ちにし、捕まえようとした。ミコちゃんは、「かわいそうだわ」と思わず声を出し、その声を聞いてか、子犬が駆け寄ってきてミコちゃんの足にじゃれつくと、ミコちゃんは子犬を抱き上げた。しかし、野犬狩りは、ミコちゃんの手から子犬をもぎ取ろうとし、とうとう取り上げられてしまった。ミコちゃんは、私が飼うからください、とお願いするも、駄目だった。箱のなかに入れられると、子犬は、板を引っ掻いては泣いた。その様子に、ミコちゃんも悲しくなった。そのとき、お巡りさんが来て、「おじさんが助けてあげよう」と箱のなかから子犬を出してくれた。この子犬が、ポールだった。

それからミコちゃんとポールは大の仲好になりました。ポールは何時も、ミコちゃんのお家で幸福そうに遊んでいます。

それを見るとミコちゃんは、あの時ポールを救ってやって、ほんとうによかったと、思うのでした。

北条民雄『可愛いポール』

これが、『可愛いポール』という童話のあらすじである。

 

『すみれ』

もう一つの童話は、『すみれ』という作品で、ひとりぼっちの寂しいおじいさんと、寂しげで美しいすみれの花が描かれている。

深い深い山奥で、音吉というおじいさんが暮らしていた。3年ばかり前におばあさんが亡くなり、じいさんは一人ぼっちだった。じいさんには、20歳になる息子がいたものの、遠く離れた町に働きに出ていたので、ときどき手紙の便りがあるくらいのものだった。人里離れた山のなかで、通る人もなく、日が沈むと、いっそう寂しく暗い夜が訪れた。囲炉裏の横に座っていると、遠くの峠から、狼の声が聞こえてくる。囲炉裏で暖まりながら、亡くなったおばあさんのことや、遠い町の息子のことを考えては、一人ぼっちで悲しくなった。そのうち、じいさんは、こんなに寂しいばかりの毎日で、山のなかに住むのが嫌になってきた。「ああ、嫌だ嫌だ。もうこんな一人ぼっちの暮らしは嫌になった。」

それから、町へ行くことを決心した。町には、電車も汽車も、まだ見たことがない自動車もある。舌のとろけるようなおいしいお菓子もあるはずだ。町の息子の所へ行こうと思った。じいさんは、さっそく準備にとりかかった。そのとき、庭の片隅で、しょんぼりと咲いている小さなすみれの花がじいさんの目に映った。

すみれの花は小さくて寂しそうだったが、可愛い花びらは、澄み切った空のように青く、宝石のような美しさだった。どうしてそんなに寂しそうなのか、とおじいさんがすみれに尋ねても、すみれは何も答えなかった。翌日も、すみれは寂しそうに咲いていた。私が町へ行ったら、このすみれはどんなに寂しがるだろうと思うと、おじいさんはなかなか町へ出かけることができなかった。寂しいすみれのことを思っては、次の日も、またその次の日も、おじいさんは出発できなかった。おじいさんが、毎日すみれのところへ行っては水をやるなど面倒を見てやると、うれしそうに微笑み、「ありがとう、ありがとう」とすみれはお礼を言った。おじいさんも、すみれを見ているあいだは、町へ行くことを忘れてしまうようになった。

ある日、おじいさんは、そんなに美しいのに誰も見てくれない、こんな山のなかに生まれて悲しいだろう、とすみれに言うと、すみれは、「いいえ」と答えた。歩くことも動くこともできなくて、何にも面白い事はないだろう、と尋ねても、「いいえ」とまた答えた。どうしてだろうとおじいさんが不思議そうに考え込むと、すみれは言った。

「わたしはほんとうに、毎日、楽しい日ばかりですの。」

「体はこんなに小さいし、歩くことも動くことも出来ません。けれど体がどんなに小さくても、あの広い広い青空も、そこを流れていく白い雲も、それから毎晩砂金のように光る美しいお星様も、みんな見えます。こんな小さな体で、あんな大きなお空が、どうして見えるのでしょう。わたしは、もうそのことだけでも、誰よりも幸福なのです。」

「それから、誰も見てくれる人がなくても、私は一生懸命に、出来る限り美しく咲きたいの。どんな山の中でも、谷間でも、力一ちからいっパイに咲き続けて、それからわたし枯れたいの。それだけがわたしの生きている務めです。」

この言葉を黙って聞いていたおじいさんは、なんと利口な花なんだろう、わしも町へ行くのはやめよう、と決めた。そして、すみれと一緒に、澄み切った空を流れていく綿のような雲を眺めていた。

 

感想

以上が、北条民雄の二つの童話のあらすじだ。と言っても、ほとんど全編の紹介と言っていいと思う。決して長いお話ではない。一つ目の『可愛いポール』は、野犬狩りという仕事や、その存在が、当時どういったものだったか、ということも分からないことから、解釈に難しく、個人的には、二つ目の『すみれ』のほうが響いた。どこにも行けないでも、その場所で満足して美しく咲こうとする、すみれの花。病弱であまり色々と出かけられない日々の多かった僕にとっても、最後に出てくるすみれの台詞は沁みる。青空、白い雲、星々、自分の今ある境遇のなかで、美しさを見つけること。幸福を見つけること。そして、たとえ誰も見てくれなくても、できる限りに美しく咲き、枯れること。それだけが、生きている務め、と。常にそんな風には思えなくても、心が不安と絶望に襲われそうなとき、ふと思い返したい言葉だ。