このサイトでは、アフィリエイト広告を利用しています。また、感想に関しては、一部ネタバレを含んでいる場合があります。

八木重吉の詩『心よ』

八木重吉

好きな作家に、八木重吉という昔の日本の詩人がいる。八木重吉は、今から100年近く前の詩人で、わずか29歳という若さで亡くなる。死因は結核だった。英語と数学を教えたことで出会った、とみという女性とのちに結婚し、二人の子供もいたものの、子供は二人とも重吉と同じく結核で10代の頃に亡くなっている。

八木重吉は、キリスト教徒であったことから、深い信仰心を根っこに据えた詩人であり、また日本の自然や儚さなど情緒を歌った叙情的な詩人でもある。加えて、重吉の詩の特徴としては、軽さと深さがあるように思う。軽いというのは、単純に短い詩が多い、ということもあるが、抽象的な表現で言えば、彼の詩は、あまり強く握り締めていない、といった感覚を抱く。

頭で理論立てて構築していくような、論理によって重たくなった言葉だと、読んでいてちょっと疲れることがある。でも、重吉の詩は、軽やかで、文章を咀嚼するというよりも、森の空気や季節の風のように、リラックスした状態で吸い込んだり、水を飲んでいるような優しさがある。文学において、濃厚な味付けや計算し尽くされたようなコース料理を欲するときもある一方で、風や空気や水のような、より負荷も少なく、自然と染み渡ってくる詩歌が欲しくなるときもある。

疲れ切った心にも、あるいは、普段あまり詩を読み慣れていない人や、小学生など子供にも、八木重吉の詩は、抵抗なくすんなりと受け入れられるのではないかと思う。

 

『花』『心よ』『雨』

八木重吉の詩のなかで、読みやすく、個人的に好きな作品で言えば、たとえば、『花』という詩がある。

花はなぜうつくしいか
ひとすじの気持ちで咲いているからだ

八木重吉『花』

二行という短い詩で、意味としても決して難しくはなく、すっと入り込む。しかし、だからと言って浅さもなく、深く染み込んでくる。花の美しさには、こう見られたい、美しくありたい、といった作為などはなく、ただ一心に、咲いている。それゆえに美しいのだ、という意味合いの詩である。

それから、以前読んだ少女漫画にも登場していたことから、知っている人も結構いるのかもしれない。『心よ』という詩がある。

こころよ
では いっておいで

しかし
また もどっておいでね

やっぱり
ここが いいのだに

こころよ
では 行っておいで

八木重吉『心よ』

この『心よ』という詩も、決してメッセージ性が強いというわけではないが、心にすっと入ってくる。頭で意味を理解しようとしなくても、感覚としてまず入ってくる。なんだかわかるような気がする、というので十分足りる。

それでも、あえて作品の意味を言語化してみるとすれば、ざっくりと、次のような解釈ができるかもしれない。

心が、どこかに行こうとする。心に向けて、「いっておいで」と語りかける存在は、心が行くことを、必死に止めようとはしていない。まるで心がいつもそうであるかのように、自然と手を振って見送る。

心の帰ってくる家のような場所がここにあり、心の側は、あちらこちらに飛びながら、結局は帰ってくる。

ここがいいのだ、というのは、心を見送っている「何か」の台詞だろう。

心にとって、ここがいい、ということを、この存在は、ある程度確信を持っている。だから、心に対して、「こころよ では いっておいで」と安心して言っている。

このとき、この見送る何かは、心に対し、そっちに行ってはいけない、と止めないし、絶対に帰ってきてよ、とすがりつくこともしない。

悲しいときは、悲しみの方向に心が飛んでいく。それも受け入れる。

悩むときは、悩みの方向に心が飛んでいく。それも受け入れる。

喜びのときは、喜びの方向に心が飛んでいく。それも受け入れる。

でも、「もどっておいでね」と優しく語りかける。

どこへ戻ってくるということなのか。それは、一言では言い表せない。「自分」という存在や理性が、しっかりと心の尾っぽを握っているわけでもない。そっと手放し、見送り、心は自由に羽ばたいていく。

でも、心はいずれ帰り、落ち着く。巣箱のような、〈何か〉がある。その〈何か〉というのは、決して孤独感に襲われているわけでもない、平穏に満ちた静かなひとりの世界なのかもしれない。

ところで、途中、「いいの“だに”」という表現がある。

この“だに”というのは、どこかの方言なのだろうか。長野の方言に、“だに”という語尾はあったが、長野の方言の意味合いとは違うような気もする。この“だに”のニュアンスは、ちょっと分からないが、全体として、心と自分との自然な距離感や心への優しさが伝わってくる詩だ。

他に、八木重吉の詩では、『雨』という短い詩も、好きな作品の一つだ。

雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ

あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでゆこう

八木重吉『雨』

部屋で過ごす時間が多いとき、この詩はいっそう沁みる。部屋にいると、雨の音がよく聞こえてくる。あの雨の音のように、淡々とできることをし、そして雨が上がるように、静かに死んでゆこう、と思う。それでいいではないか、と。

詩の最後が、死んでゆこう、という言葉で終わっているものの、それは決して鬱々しくネガティブな響きではない。ポジティブでもないが、どこか悟りに近い様子もあるし、悟りと言い切れるほどに穏やかでもなく、悲しみの匂いもする。

しがみつかずに、淡々とこなし、静かに死んでいく、ということを、悲しみとともに受け入れている詩、なのではないだろうか。

 

八木重吉の詩の翻訳

この簡素な言葉で綴られながらも深い余韻を漂わせる重吉の詩は、英語に翻訳しようと思うと、どういった形になるのだろうか。

たとえば、先ほどの『雨』の詩を英語にしたら、割と直訳の形に近くなるのだろうか。

雨が上がるように、静かに死んでゆこうというときの、この「死んでゆこう」というのは、読み手に強く呼びかけているわけでもなければ、誘っているわけでもなく、だからと言って作者の強い意志ということもなければ、望みのようなニュアンスとも違う。

こういった微妙な雰囲気は、翻訳の際にずいぶんとこぼれ落ちてしまうような気がする。

調べてみると、この詩ではないものの、重吉の詩を英語に訳している人がいた(出典 : 翻訳の苦しみと楽しみ)。

英語教育が専門の飯塚成彦さんという方で、八木重吉の詩を10編ほど翻訳している。これは詩集として出版されているわけではないようだ。

ただ、とてもシンプルで分かりやすい翻訳になっている。その英訳された八木重吉の詩から、好きな詩を紹介したいと思う。

 

花はなぜうつくしいか
ひとすじの気持ちで咲いているからだ

Why are the flowers so beautful?
It is because they are blooming single-heartedly.

八木重吉『花』

 

わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる

I was wrong;
I was wrong.
Now I know it,
Sitting like this on the grass.

八木重吉『草に すわる』

 

たまらなくなってくると
さびしくなってくると
さっと
てのひらで わたしのまえを切る
きられたところから
花がこぼれる

When I feel it unbearable;
When I feel so lonesome,
Forcefully with my hand
I cut the air in front of me:
Flowers fall down
from the place cut open by me.

八木重吉『花』

 

これは、あくまで日本人が英語に翻訳したものなので、丁寧に、原文に忠実に、ということを心がけていたのではないかと思う。一方で、もしネイティブかつ海外の詩人が翻訳したら、もしかしたら、もっと大胆に飛躍した表現になっているのかもしれない。