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雑談

中学生の頃の蛙化現象

中学生の頃の蛙化現象

蛙化現象という言葉をよく見聞きするようになった。ネットの記事では若者世代で流行語になっているとあり、芸人さんのYouTubeなどでも蛙化という言葉を耳にする。

蛙化現象とは、ずっと好きだったのにもかかわらず、相手から告白されたり好意を向けられたら嫌いになる、気持ち悪いと感じるようになる、という恋愛に関する心理的な現象を意味する。文字で説明を見ると、つくづく厄介な現象だなと思う。ちなみに、これが本来の意味のはずだが、どうやら、好きな人に対して些細なことで冷める、ということまで蛙化と呼ばれているようだ。

蛙化現象という名前は、グリム童話の『かえるの王さま』に由来する。蛙が、ある国の王女と、泉に落とした金の鞠を拾うのを助けた代わりに、食事やベッドを共にするという約束を結び、その約束を守ってもらおうと迫ると、王女は嫌がって罵りながら壁に蛙を投げつけ、その瞬間、魔法が解け、蛙が素敵な王子様に戻る、という変わった話だ。

僕が10代の頃には、蛙化現象という言葉はなかった。もうずいぶんと前のことだから、当然と言えば当然かもしれない。ただ、僕自身は、中学生の頃に、今にしてみれば蛙化現象と呼ばれるような気持ちになったことがある。小学校6年生の頃から好きだった小中と同じ学校の女子がいた。その女の子も、僕のことを好きらしい、といった噂は聞いていた。それだけでも嬉しかった。むしろ、本当はそれだけでよかったのかもしれない。いつまでも子供のまま、恋をして、可愛いな、好きだな、両想いかな、どうなのかな、同じクラスになれたらいいな、とドキドキしていたかったのかもしれない。

でも、あるとき、その均衡が崩れた。その子から、友だち経由でラブレターを渡され、その手紙には、僕のどんな部分が好きか、それから、付き合ってほしいこと、付き合ったら、映画に行ったり、たくさん一緒の時間を過ごしたい、ということが細かく書かれていた。その瞬間に、あろうことか、僕は冷めてしまった。冷めてしまったというより、怖くなってしまったのかもしれない。

恋をして、遠くで見ているうちは、安心して好きでいられる。でも、まずその手紙に書かれている僕のことを好きな部分というのが、僕としては、一体誰のことを書いているんだろう、僕はそんなにすごい人間じゃないのに、という若干抵抗感に近い感情を抱かせた。僕ではない誰かを見ていたのだ、と思った。また、付き合ってからしたいことの内容が具体的で、初めて想像し、僕は「付き合う」というステージに進みたくなかったんだ、ということに気づかされた。大人になりたくなかった、ということなのかもしれない。

僕は結局、その手紙に書いてあった待ち合わせ場所に行くことができなかった。逃げたのだ。それから、好きという感情も消えてしまった。その子のことが嫌いになった、というわけではなかった。ただ、その感情自体がなくなってしまったようだった。それは、僕自身、好きに目的を求めるということの現実感に、心が折れたのかもしれない。

大人になると、好きなだけでは駄目で、好きだから付き合いたいし、好きだから抱き合いたいし、好きだからずっと一緒にいたいし、そして結婚し、子供をつくり、と何かの“目的”がないといけない。“ただ好き”というのはないんだな、ということを突きつけられたような気がしたのだと思う。だったら、好きという感情はちょっと自分には重たいな、となった。手紙をもらったのは、確か休日前で、休日が明けた後に、その子がバッサリと髪を切って登校してきた。女の子は失恋したら髪を切る、という話は聞いたことがあり、そのすっかり変わった姿も、自分にはいっそう重くのしかかってきた。

申し訳ないという感情が強かった。そして、僕はそれから数年間は、誰かを好きになるということもなかった。それはある種の自罰的な行為でもあり、“続き”に進む覚悟もないのに、人を好きになってはいけない、という自分への戒めでもあったのかもしれない。

これが、中学生の頃に僕が体験した蛙化現象の話だ。

その後、中学高校と、(別の原因で)長らく不登校になったこともあり、初めて彼女ができたのは大学生になってからだった。そのときは、同じ大学の子で、家も近く、僕から声をかけ、一緒に遊ぶようになり、しばらくして僕の部屋で告白した。そのときも、付き合うということの意味はよく分からなかった。それでも、付き合うという一歩目に、以前ほどの恐怖はなかった。周りにいた友人たちが、付き合って、別れて、ということを行っている姿を見ていたのもあるのかもしれない。また、好きといったら目的があるものだ、次の一歩があるものだ、という思考に違和感を持ちづらくなってきたのもあるのかもしれない。その頃の自分は、別の精神的な問題を抱えていたので、その件に関する不安はあったが、それは中学生のときの蛙化現象的なものとは違った。

そういう意味で言えば、僕の場合、蛙化現象は、中学生の頃の一時的な思春期の心の揺れが大きな原因だったのかもしれない。そのときの子とは、しばらくは話すこともなく、成人式のときに久しぶりに話した。どこかでずっと後ろめたく、避けてきたのが、ようやく、普通に話せた。

でも、よく自己肯定感の低さが蛙化現象の要因の一つとも言われるが、その感覚も分かるような気がする。自分なんかを好きになるわけがない、と思いながら、恋に恋するように、遠くから眺めていた相手が、突然自分に好意を向けてきたら、不安や恐怖、場合によってはその現実を拒絶するために自然と相手への嫌悪感に繋がってしまうのかもしれない。ずっと好きだった人が、急にこちらを振り向いて近寄ってきたら、夢が現実になって(嬉しいのではなく)怖くなる、という感覚は、今でも理解できる。

恋愛は、片想いのあいだは夢のようでも、両想いになり、付き合うとなると、途端に確かな現実の連続になる。一緒に映画に行ったり、ご飯を食べたり、ディズニーや花火に行ったり、キスをしたり、ということが、夢のようだ、と思う人もいるかもしれないが、少なくとも当時の僕にとっては、その一つ一つが、「現実」として迫ってきた。もしかしたら、蛙化現象は、夢のようにまっさらで無垢な世界への憧れがあり、現実が怖い、ということでもあるのかもしれない。

相手はもちろん、本人としても、心苦しく、辛いというケースも少なくないと思うし、やっぱり厄介な現象で、心というのは難しいなと思う。