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中学生の頃の蛙化現象

蛙化現象とは

蛙化現象かえるかげんしょうという言葉を、よく見聞きするようになった。

ネット記事や新聞などで、「若者世代で流行語になっている」とあり、芸人さんのYouTubeなどでも、ときどき蛙化という言葉を耳にする。

蛙化現象とは、「ずっと好きだったのにもかかわらず、相手から告白されたり両思いになったら嫌いになる、冷める、気持ち悪いと感じるようになる」といった、恋愛に関する心理的な現象を意味する。

ずっと好きだったのに、その好きな人から好かれると嫌いになる。両思いだったはずが、突然冷められる。

その感覚が実感として分からない人からしたら、だいぶ意味不明で厄介な現象に見えるかもしれない。

ちなみに、この「両思いになったら冷める」というのが、そもそもの蛙化現象の本来の意味だった。

しかし、今はどうやら、「恋人や好きな人に対し、些細なことで冷める」ということまでも蛙化と呼ばれているようだ。

誰もが思わず行ってしまうような、小さなミスや言動などで恋心がすっと冷める。

あるメディアでは、蛙化の例として、「ICカードの残高不足で通れなくなっている姿」や「フードコートでお盆を持って自分を探している姿」などが挙げられ、いよいよ意味の拡張が凄いことになっている。

食べ方が汚いだったり、店員さんに暴言を吐く、といった理由ならまだしも、フードコートで自分を探している様子で、なぜ嫌いになるのだろう。焦ってキョロキョロしている様子が、情けなく映るのだろうか。

ただ、あくまでもともとの蛙化現象の意味は、「好きな人に好かれることによって冷める、嫌いになる」という現象を指している。

この「蛙化現象」という名前は、グリム童話の『かえるの王さま』に由来する。

蛙が、ある国の王女と、「王女が泉に落とした金の鞠を拾うのを、自分が助ける代わりに、食事やベッドを共にする」という約束を結ぶ。

その約束を守ってもらおうと蛙が王女に迫ると、王女は嫌がって罵りながら壁に蛙を投げつけ、その瞬間、魔法が解け、蛙が素敵な王子様に戻る、という一風変わった物語だ。

この話が、蛙化現象という名前の由来となっている。

ただ、実際の蛙化現象は、「王子様だと思っていたら蛙になる」というニュアンスなので、意味合いとしては逆転している。

いずれにせよ、この言葉が、意味の拡張も行われながら浸透し、今や、多くの人が蛙化現象を経験しているようだ。

 

中学時代の蛙化現象

僕が中学生や高校生、大学生の頃には、蛙化現象という言葉はなかった。

少なくとも、聞いたことはない。もうずいぶんと前のことだから、当然と言えば当然かもしれない。

ただ、僕自身は、中学生の頃に、今にしてみれば、「好きだった人に好かれること」で拒否反応が生じる、蛙化現象に近いような心境になったことがある。

小学生の頃から好きだった、小学校、中学校と同じ学校の女子がいた。

6年生の頃、僕の前の席に座っていた子で、好きになった瞬間のことも覚えている。そして、その女の子も、僕のことを好きらしい、といった噂を聞いていた。

この時点では、蛙化は起きていない。その頃は、純粋に嬉しかった。むしろ、本当は「それだけでよかった」ということなのかもしれない。

いつまでも子供のまま、ささやかな恋心のなかで、可愛いな、好きだな、両思いかな、どうなのかな、とドキドキしていたかったのかもしれない。でも、あるとき、その均衡が崩れることになる。

中学に入ってからしばらくして、その子から、友だち経由でラブレターを渡された。手紙には、僕のどんな部分が好きか、ということや、付き合ってほしいこと、付き合ったら、映画に行ったり、たくさん一緒の時間を過ごしたい、といったことが細かく書かれていた。

好きな人からの告白であり、普通なら、大喜びのはず。でも、その瞬間に、あろうことか、僕の彼女への想いは急激に冷めてしまった。

冷めてしまった、というよりも、怖くなってしまった、というほうが、そのときの心理を示す表現としては適切かもしれない。

恋をして、遠くで眺めているうちは、安心して好きでいられる。素直に、好きだな、と思い、他の人が好きなのかな、と不安になり、ときに嫉妬する。想像のなかで、恋をしている。

でも、もう一歩こちらに向かって近づいてこられると、途端に身構え、拒否反応が生まれる。

まず、その手紙に書かれていた、自分のことを好きな部分を読みながら、これは一体誰のことを書いているんだろう、僕はそんなに誉められるような人間ではないのに、という抵抗感に近い感情が芽生えた。

あの子はきっと、僕ではない別の誰かを見ていたのだ、という不気味な感覚さえ覚えた。

他者がこちらを見ている、分析している、という〈他者の視線〉への不慣れが招いたことでもあったのかもしれない。

それから、手紙に綴られていた、「付き合ってからしたいこと」の内容も具体的だった。デートで、こんなことがしたいと、今思えば、なんでもないありふれたことだったが、その「現実感」に怯えた。

そして、実際にデートのことを想像してみたときに、僕は、あの子のことを「好き」ではあっても、「付き合う」というステージに進みたいわけではなかったのかもしれない、ということに気づかされた。

それは、言い換えれば、「大人になりたくない」ということでもあったのだと思う。なんとも言い難い、恐怖心と拒絶感が入り混じったような感情に襲われた。

僕は結局、彼女からの手紙に書いてあった待ち合わせ場所に行くことができなかった。向き合うことから逃げた。そして、彼女に対する「好き」という感情も、どこかへ消えてしまった。

その子のことが嫌いになった、というわけではなく、ただ、その感情自体がなくなってしまったようだった。

それは、僕自身、「好き」に目的や次の段階を求めるということのあまりの現実感に、心が折れた、という側面もあった。

大人になると、好きなだけでは駄目で、好きだから付き合いたい、好きだから抱き合いたい、好きだからずっと一緒にいたい、そして、やがては結婚し、子供をつくり、と何かの“目的”がないといけない。

恋には、“ただ好き”というのはない、という現実を突きつけられたような気がしたのだ。

だったら、「好き」という感情はちょっと自分には重たいなと、少なくとも中学生の頃の僕には思えた。「好き」に付随する、こんなにも重たく、現実的で、生々しいものは、とても背負えなかった。

手紙をもらったのは休日前で、休日が明けた後に、その子はバッサリと髪を切って登校してきた。まるで別人のようだった。女の子は失恋したら髪を切る、という話は子供ながらに聞いたことがあったが、そのすっかり変わった姿も、自分にはいっそう重くのしかかってきた。

申し訳ない、という罪悪感にも駆られた。向こうからしても、僕が彼女のことを好きだった、両思いのようだ、という噂は聞いていたと思う。まさかこんな風に拒否されるとは想像していなかったと思う。

そして、僕はそれから数年間は、誰かを好きになるということもなかった。それはある種の自罰的な行為でもあり、“続き”に進む覚悟もないのに人を好きになってはいけない、という自分への戒めでもあった。

これが、中学生の頃に僕自身が体験した「蛙化現象」である。

 

築いていくこと

その後、中学高校と、(別の原因で)長らく不登校になったこともあり、初めて彼女ができたのは大学生になってからだった。

そのときは、同じ大学の一つ年齢が年下の子で、家も近く、僕から声をかけ、一緒に遊ぶようになり、しばらくして告白した。

本当はそのときも、「付き合う」ということの意味はよく分からなかった。それでも、「付き合う」という一歩目に、中学生の頃ほどの恐怖心はなかった。

周りにいた友人たちが、付き合って、別れて、ということを行っている姿を見ていた影響もある。

また、好きと言ったら目的があるものだ、次の一歩があるものだ、という思考に違和感を持ちづらくなってきたのもあった。

その頃の自分は、別の精神的な問題を抱えていたので、その件に関する不安や、この病を受け入れてくれるだろうか、といった心配はあったものの、それは中学生のときの蛙化現象的な恐怖心や抵抗感とは異なるものだった。

その意味で言えば、僕の場合、蛙化現象は、中学生の頃の一時的な思春期の心の揺れが大きな原因であり、年齢や経験とともに、治ったと言えば治ったと言えるのかもしれない。

気づいたら、そういうことはなくなっていたので、治し方というのは、自分でもよく分からない。

時間が解決した側面もあるし、恋愛に過度な期待や幻想を抱かない、ということも重要なことなのかもしれない(と言っても、幻想が恋の原動力でもあるのだから、全くゼロにもできないとは思う)。

もちろん、重さも事情も人それぞれだし、男女の場合でも違いがあると思う。

人間の心は繊細で、身体からも影響を受ける。だから、その瞬間は体調が不安定だったり、余裕がなく、たまたまその一滴(人から見たら些細なことであっても)で心身の許容量が越え、拒絶反応が出て「蛙化」してしまっただけ、ということもある。

しばらく時間を置いてからもう一度判断してみる、ゆったりとした時間や空間を取ってから、改めて考えてみる、というのも一つだと思う。

余裕のないときには、判断を急がないこと。これは蛙化現象に限らず、基本的な人生の鉄則だと思う。

もし許容量が越えてしまったための拒絶感であれば、一度冷めてしまっても、少し休んだり距離を置いたら、また好きになる、相手への感情が戻ってくる、ということはあり得る。

だから、嫌いになってしまった側も、嫌いになられてしまった側も、ちょっと休み、待ってみる、というのは一つだと思う。

また、「ちょっとしたことで」怒ったり悲しんだり感情が振れるときというのは、心身ともに「余裕がない」ということが大きいので、本当に些細なことで蛙化を繰り返してしまうようなら、日々の生活習慣からストレスになっている要素まで、自分のなかで色々と見直し、整理する、というのも大事になる。

それから、治し方と言うほど直接的なことでもないにしても、大人になって、今の「蛙化現象」の浸透を見ていると、「与えられるものではなく、築いていくもの」という感覚を、日頃から持っているようにするといいのではないかと思う。

恋のありかたにせよ、人間にせよ、既製品のように、「完成したもの」が与えられることに慣れ、欠けている部分を見つけては、不良品のように幻滅する、ということではなく、まだ完成していない、どんな形になっていくか分からないものを、一緒に築いていく、歩んでいく、という視点を意識すること。

お互いの未熟さにせよ、関係の未熟さにせよ、人は常にゆっくり育まれていく途中でもある。

当然、全てを許し、全てを受け入れろ、というわけでもなく、その築いていく過程で、どうしても合わない部分が増えていったら、そのときはそのときの判断も必要になる。

しかし、「理想の、完成したもの」を念頭に置くと、どうしても色々な場面で「減点」を見つける、という作業に集中してしまう。そして、減点方式の発想は、結局、やがては嫌いになるために付き合う、みたいなことになる。

同級生であれ、年上であれ、仮に年齢が離れていようとも、あくまで人間と人間の対等な付き合いであり、未熟な誰かを、神様のような成熟した誰かが救う、という話ではなく、未熟な者同士が、一緒に築いていく、歩んでいく、ということを踏まえておくことが必要なのではないかと思う。

もう一つ、自己肯定感の低さが蛙化現象の要因とも言われる。その感覚も分かるような気がする。

自分のことなんかを好きになるわけがない、と思いながら、恋に恋するように、遠くから眺めていた相手が、突然、自分に好意を向けてきたら、不安や恐怖、場合によっては、その現実を拒絶するために、防衛本能的に、相手への嫌悪感が生じてしまうこともある。

自己肯定感の低さは、そんなにすぐに解決するような問題ではないし、他人に求めすぎると、その都度期待しては幻滅する、ということの繰り返しにもなる。

個人的には、趣味であれ、自分磨きであれ、一つ一つ積み重ねていく、という経験を積んでいくことがいいのではないかと思う。

それから、「現実感」への恐怖もある。ずっと好きだった人が、急にこちらを振り向いて近寄ってきたら、夢が現実になり、(嬉しいのではなく)怖くなる、という感覚は、今でも理解できる。

恋愛は、片想いのあいだは夢のようでも、両思いになり、付き合うとなると、途端に確かな「現実」の連続になる。

喧嘩や話し合いというだけでなく、一緒に映画に行ったり、ご飯を食べたり、ディズニーや花火に行ったり、キスをしたり、ということが、「夢」のようだ、と思う人もいるかもしれない。

でも、少なくとも当時の僕にとっては、その本来なら嬉しいはずの一つ一つでさえも、重く生々しい「現実」として迫ってきた。

もしかしたら、蛙化現象は、夢のようにまっさらで無垢な世界への憧れがあり、生々しい現実が怖い、ということもあるのかもしれない。

蛙化現象は、相手はもちろん、本人としても、心苦しく、申し訳ない、辛いというケースも少なくないだろうし、やっぱり厄介な現象で、心というのは難しいものだと思う。

中学生の頃に好きだったその子とは、そのときの一件以来、気まずくなり、しばらくは話すこともなかった。

ようやく話せるようになったのは、何年も経った成人式のときのことだった。どこかでずっと後ろめたく、避けてきた面もあったものの、成人式の人混みのなかで、たまたま会ったとき、本当に久しぶりに、自然と話すことができた。

別に、成人式をきっかけに、もう一度仲良くなる、ということもなかったし、そんな望みもなかったが、自分のなかで心のしこり一つ取れたような気がした。