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毎日少しずつ それがなかなかできねんだなあ、という発明

相田みつをの有名な作品に、「毎日少しずつ それがなかなかできねんだなあ」という呟きのような詩がある。

これは、『にんげんだもの』という詩集のなかの一編で、「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」に次ぐくらい、相田みつをの言葉のなかで広く知られた詩ではないかと思う。

相田みつを『にんげんだもの』

相田みつをは、言葉の意味が分かりやすく短い詩を、独特の書で書き記すことが特徴の詩人で、彼の言葉は、普段詩に触れることの少ない人でも知っているし、一般家庭などでも多く見かける、という不思議な作家だ。

1924年、栃木県で生まれた相田みつをは、もともと書家として出発し、のちに詩と書を融合させ、1984年に出版された『にんげんだもの』で一躍有名となる。しかし、順調だったさなか、1991年に、67歳で急逝する。死因は、道で転んだ際の脳内出血だった。

相田みつをの作品に関しては、作品集は持っていないものの、この『にんげんだもの』は、実家の部屋の壁に掛かっていたことを覚えている。本ではなく、確かカレンダーだった。家族のうちの誰が相田みつをのカレンダーを買ってきたのかは分からない。気づいたときには、そこにあった。

相田みつをの言葉は、日めくりカレンダーのようにして、「気づくと日常にあるもの」という印象がある。個人的な記憶や先入観によるイメージかもしれないが、家だけでなく、小さな事務所や居酒屋などにもある。「トイレや病室が似合う詩人」とも言われているようだ。世界中を探しても、トイレや病室が似合う国民的に広く知られた詩人、という存在はいないのではないかと思う。

詩と言うと、高尚で取っ付きにくい印象もあるかもしれない。でも、相田みつをの言葉は、子供がいつのまにか覚えて口ずさんでいる童謡のように広く浸透している。詩という捉え方があまりされていないからかもしれないが、こんなにも染み付いている詩人も珍しい。

染み付いている、と表現したくなる理由として、彼の言葉が、気軽に真似されている、という点が挙げられる。

たとえば、詩の終わりに「みつを」とつくことも、相田みつを作品の特徴であり、この署名のスタイルを真似し、何か教訓めいた、短い言い回しを思いついた際、言葉の最後に、「みつを」と言ってみる、あるいは、自分の名前と絡め、冗談混じりに「◯◯を」と言ったことがある人もいるのではないだろうか。バラエティ番組でも、そういった演出を見たことがあるように思う。また僕自身も、学生時代、友人同士でそんな風にパロディっぽく軽口を叩いていたことがある。

それから、冒頭に触れた、「毎日少しずつ それがなかなかできねんだなあ」のうちの後半部分、「それがなかなかできねんだなあ」や、「にんげんだもの」という一節も、その言葉だけを拝借し、誰かから正論を言われたときに、軽いクッションや自分への言い訳めいた言葉として、思わず使っている、ということもあるのではないかと思う。

身近な人に、「君は、もっとこうしたほうがいいよ」と言われた際に、「それがなかなかできねえんだなあ」「にんげんだもの」と返す。あるいは、自分のなかで、「それがなかなかできねえんだなあ」とため息混じりに、独り言のように呟いてみる。これも僕は気づいたら行っている。理想があり、こうしたい、と思っても、少し間を置き、「それがなかなかできねえんだなあ」と脳内で零す。

この気軽に誰でも使える詩の一節を、自分の言葉のようにして日常に忍ばせる、ということが、相田みつを作品の凄さの一つだと僕は思う。歌で言えば、ふと口ずさみたくなるフレーズと似ている。

しかも、「それがなかなかできねんだなあ」は、日常用語で、相田みつをが詩にする以前から、たぶん普通に使われていた言葉だ。全文を通しても、しばしば誰かが零していたかもしれない。でも、もはや明らかに“相田みつをの言葉”として響く。そして、日常に浸透している。詩において、それは珍しいことだ。

有名な詩の一節で、たとえば詩人の茨木のり子の代表作に、「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という一節がある。あの言葉は、確かに口ずさむこともあるかもしれない。でも、しっかりと詩の一節であり、口にすると、“朗読する”という感覚になる。日常の用語ではない。中原中也の詩でも、「汚れっちまった悲しみに……」と言えば、それはもう詩の響きとして、日常からは遊離する。

一方、「それがなかなかできねんだなあ」は違う。全く特別ではないゆえに、日常に浸透しやすく、また、あの書体も映像として蘇ってくる。あの書体だと、きっとこんな声なんだろうな、というイメージさえ湧き上がってくる。

そして、田舎のおじさんのような口調で、「それがなかなかできねんだなあ」と口にしたり、頭によぎったりする。同じく簡単で分かりやすい意味の言葉を使いながら表現する詩人に、八木重吉がいる。

八木重吉の詩『心よ』

ただ、重吉の詩も、現実世界からはすっと離れ、羽ばたいていくような言葉であり、日常用語として普段使われるものではない。かつて民藝運動の際に、柳宗悦が「用の美」という言葉を使っていたが、日常に溶け込んで思想となる相田みつをの言葉も、そういった雰囲気がある。誰かの言葉にいつでもなれる、「それがなかなかできねんだなあ」は、一つの発明だと思う。