ゴミできらめく世界が、僕たちを拒んでも
僕が音楽に興味を持つようになってまもなくの中学生の頃、ときおり母親の車のなかで『ロビンソン』が流れていたことを覚えている。
僕にとっては、母親が好きなミュージシャン、というのが、スピッツを初めて意識したきっかけだった。
と言っても、もともと両親ともに音楽にはそれほど強い関心を示していなかったから、母親がどれだけスピッツのことを好きだったのかは定かではない。少なくとも、熱烈なファンというわけではなかったと思う。一応、スピッツと小田和正が好きだということは、その頃に話していた。
ただ、そもそも親の好きな音楽について、歌詞も含め、ある種プライベートの部分はあまり知りたくない、親は親であって、立体的な人間像として見たくない、という思春期的な抵抗感もあり、それほど深く音楽の話を聞こうとも思わなかった。
学校で体調が悪くなって、早退して帰る途中(その頃、僕は早退の頻度が増えていた)、車の窓から外の風景を眺めながら、なんとなく耳に入ってきたスピッツの曲。
歌詞の意味はよくわからなかった。でも、その柔らかくて夢の世界のような歌声と、学校が辛くて、こんな世界から早く抜け出したいな、という気持ちとが相まって、そのときの情景は、どこか夢と現実のあいだの空間のような、不思議な記憶の一場面として残っている。
それ以降も、特に熱心にスピッツの曲を聴いたわけではなかったものの、『遥か』という曲が好きで、この曲はよく聴いていた。
当時、音楽はMDで聴くことが多く、自分の好きな曲を集めた、様々な色付きのMDがあって、そのなかで青色のMDの数曲目に『遥か』を入れ、半分引きこもりのような生活を送っていた薄暗い部屋で流していた。
これは決して悪い意味ではなく、スピッツの曲も、歌詞も、草野マサムネさんの歌声も、ちゃんと向き合って聴かなくてもいい、という心地よさがあると僕は思っている。疲れている、頭も使いたくない、心もどこかへ行ってしまっている、そういうときに、たとえ正面から受け取らなくても、寄り添ってくれる。優しく沁み込んでくる。それでもいい、と許してくれる音楽のように思う。
スピッツの歌で言うと、他には、『空も飛べるはず』の歌詞で、「ゴミできらめく世界が僕たちを拒んでも、ずっとそばで笑っていてほしい」という一節があり、この言葉も好きで、いつだったか、改めて読んで、ふいに泣きたくなったことがある。
この世界なんてゴミばっかりだ、と言えば強すぎる。そんなに自信を持っては言えない。また、そのゴミばかりの世界をぶっ壊してやる、変えてやる、という強さもない。自分だって、きらめくことすらできないゴミではないか、という思いもある。
ただ、「ゴミできらめく世界」に馴染めずに、僕たちが、その世界の外側に弾き出されても、あなただけは、ずっとそばで笑っていてほしい、という願いの温度が絶妙なのだ。
必ずしも、馴染めない自分たちだけの弱さというわけではない。今の世界のきらめきを“ゴミ”と表現できるほどには強く、負けてもいない。でも、ほかの表現の部分と組み合わせると、ほのかに悲しみも寂しさも漂ってくる。その度合いが、ちょうどいいのだと思う。
ゴミできらめく世界が、僕たちを拒んでも、ずっとそばで笑っていてほしい。
それから、この曲で思い出すのは、元andymoriの小山田壮平さんがカバーしている動画だ。高円寺のライブハウスで歌っている、『空も飛べるはず』の映像が、YouTubeにあってよく観る。
小山田さんの声も好きだし、曲とも合っているし、こういう小さい箱が醸し出す空気感が好きというのもあって、事あるごとに聴きにいく。
空も飛べるはず/スピッツ コピー
ライブハウスは、数えるほどしか行ったことがないけれど、小さな空間ならではの距離感がいい。路上ライブも好きだ。言葉や声や想いが、よりダイレクトに響く。
スピッツのカバーで言うと、少し前にKANさんが亡くなって、僕はKANさんの曲は『愛は勝つ』くらいしか知らないけれど、KANさんに関するSNSの投稿を色々と読んでいると、ファンだけでなくたくさんのミュージシャンに影響を与え、愛されていたんだな、というのを知った。
そして、投稿を読んでいるなかで、スピッツの『チェリー』のカバーもあって、それもすごくよかった。