生きていると、どうにもならないこと、というのがある。そして、大人になるということは、どうにもならないことの経験を重ね、自分なりの向き合い方や折り合いのつけ方を学んでいく、ということでもある。
どうにもならないことの一つとして、たとえば自然災害のようなものが挙げられる。災害に限らず、雨が降るにせよ、風が吹くにせよ、自然に生じることばかりは、どうしようもない。
その他にも、神のみぞ知る、といった表現もあるように、自分のできることをできる範囲で行って(あるいは、最初から何もしない、という選択もある)、後は成り行きに任せる以外にない、ということがある。
人との出会いや別れも、同じように、自分の意思や力でできることは限られる。
出会うための努力として、色々な場所に行ったり、イベントに参加したり、気になった人に声をかけたり、相手のために尽くす、といった方法はある。
でも、いずれにせよ、この世界にいる全ての人と出会うこともできないのだから、「もっと合う人がいるはずだ」と言い出したらキリがない。
人は、どうしたって「限られた世界」で生きている。どこかで妥協しなければいけないし、与えられた状況のなかで、受け入れること、その上でできるささやかなことを模索していく以外にない。
人が離れていくことも同じように、相手の気持ちまでは無理矢理にコントロールできない。自分でできることは行っても、あとは向こうの感情に委ねるほかにない。
どうにもできないこと、これ以上は仕方がないことがあり、その仕方がないことを、無理矢理どうにかしようとすると、余計に悪い結果になる、ということもある。ほどほどにすることが一番、という場合もある。
それは、すなわち「諦める」ということでもある。
諦める、という言葉の語源は、「明らむ」であり、「つまびらかにする、明らかにする」という意味だと考えられている。
自分のできることについて明らかにする、しっかりと把握した上で、できないこと、どうしようもないことについては、諦めることが、次の道にも繋がる。
諦めないことで、どうにかなることもある。道が開けることもある。「諦めたらそこで試合終了ですよ」という漫画の有名な台詞があるが、一方で、「諦めること」「手放すこと」によって始まることもあれば、よい結果に繋がることもある。
「諦める」という言葉は、現在では、「自分の願望が叶わず仕方がないと断念する」というネガティブな意味で使われています。この言葉の語源は「明らむ」、つまり、「つまびらかにする、明らかにする」ことだと考えられています。
また、「諦」は仏教で「真理、道理」の意味があるそうです。本来「諦める」とは、「真理、道理を明らかにする過程で、自分の願望が達成できそうにない理由が分かり、納得してそれへの思いを断ち切る」というポジティブなものなのです。
冒頭で、どうしようもないことの一つに自然というものを例に挙げたが、その最たるものが、生き物に備わっている「死」だろう。死は、誰にとっても避けがたく訪れる。自分自身の死も、また大切な誰かの死も。
解剖学者の養老孟司さんが、以前、自身の考える「いい死に方」とはどういったものか、という問いに対し、「そういう注文はできるだけ出さないようにしている。しょうがないことには、あれこれ口を出さない」と語っていた。
人生の流れのなかに任せ、どういう風に死のうが、それは仕方がないこと。納得した死に方、というのはない。いつだってポンと終わってしまうもの。「納得しようがしまいが、どこかでポンと終わる、というのもいいじゃないですか」と養老さんは言う。
納得した終わり方というのはない。でも、その都度できる分だけ生きる、ということはできる。そして、その上で、あとはもう、仕方がないこと、どうにもならないこととして委ねる、というのでいいのかもしれない。
冬が寒いと言ったら、自分の側は服を着込んで暖める。こたつに入る、お鍋を食べる、運動をする、というのでもいい。弱っていたら、もちろん休むほうがいい。
でも、同時に、世界の側の寒い分は引き受ける。これが、冬が寒いのを無理矢理どうにかしようとして、たとえば、冬そのものを消し去ってしまおう、などと夢見てはいけない。人間の領分を越えるようなことをしたら、全体のバランスが崩れ、きっと後々反動も来る。
できる分はして、受け入れる分は、仕方がないこととして受け入れる。それは決して簡単なことではなく、深い悲しみに襲われることもある。
それでも、辛うじて保つためにも、必要な考え方として、自分の今持っているもの、今残っているもの、今あるものに目を向けるようにする。
これは残っているじゃないか、これならできるじゃないか、ということを、どれほど他の人からしたら些細に見えても、よく見ること。大切にしてあげること。感謝してみること。これもまた一つの、明らかにする、ということではないかと思う。